坊さん。
57番札所24歳住職7転8起の日々。

第179回 自我を離れるってこんなことかな?

ほぼにちは。

ミッセイです。

少し前に、
徳島にあるお寺で、

「不断護摩」(ふだんごま)

という夜を徹して、
火を使った護摩(ごま)という修法を、
する行事に参加してきました。

僕は、何人かのお坊さんと一緒に、
修法をしているお坊さんの後ろで、
お経を唱えたり、
真言を唱えたりしていたのですが、

深夜のお堂の中で、
芥子の実や蘇油(そゆ)が燃える、
空間の中に身を置いていると、
※牛乳から製した油。食用・薬用のほか、
 密教で護摩(ごま)を修するのに用いる。
 (大辞林 第二版より)


お寺の中でも、
普段の生活の中でも、
感じたことのないような気分になりました。

こんな経験をすると、
こういった修法が、
時間を超えて残ってきたことや、
仏教というアイデア自体が、
残っていることに対して、

「なるほどなー。」

と思ってしまいます。

ひどく曖昧な、

「なるほどなー」

ですが、
うまく言えないけれど、
腑に落ちるってことって、
結構あるような気がします。

でも、
なにせ長い修法だったので、
後半は正座の足が痛くて、
それどころでは、なかったんですけれど。
(僕は1時間以上の正座に弱い。)

***

仏教の本を読んだり、
お坊さんの書いたものを、
読んだりしていると、

「自我を捨てる。」

ということが、
よく出てきます。

仏教のことは、
あまり知らないなーって、
思ってる人も、

「仏教って、
 欲望とか自我から、離れることなんでしょ。」

ということは、
よく聞く話かもしれません。

でも、
なにを隠そう、
自分の心の中で、
僕が一番欲しいものは今、

「自我」なんです。

欲しい、というか、
もっと必要って考えています。

自我って言葉自体も、
すこし、わかりにくいね。
(僕にも、よくわかりません。)

ここでは、

「自分の主人公としての自分」

みたいに考えましょうか。
皆さんも、
自由な自我をイメージしてみてください。

どうやって、
「自我」みたいなものと、
近づけるのか。

そういうことを、
僕はここ最近、
自分自身のテーマにしてきたような気がします。

でも、なにかの、
拍子に、
ふっと、

「自我を離れる」

という言葉が、
表現しようとする、
状態が想像できたような気がしたんです。

「もしかして、便利かも。」

っていう感じに。

それは、
自分がどういった状態を目指した時に、
自分自身の「価値」みたいなものが、
一番高まるのか?

みたいなことを、
ぼーっと考えている時に、
イメージしたことです。

それは、たぶん、

「結果」を目指した時なんです。

自分の声が大きい、小さい、
ということを目的とせずに、

「結果」として、

自分が動いたり、喋ったり、
手を動かしたことが、

「役に立った」時、

自分の価値というか、
「発揮される力の総量」
が、一番高まるなぁ、と思ったんです。

すこし、想像しにくいですか?

例えばひとつのプロジェクトを抱えた、
チームなんかだと想像しやすいかもしれません。

自分がいることを、
結果に対して、
最大限、
役に立てようとした時、

そこでは、
表面的な「自我」は、
ジャマな時があると思います。

そして、その、
「結果に対する効果をみる」みたいな動きが、
結果的に自分のいる価値を、
もっとも高めることに、

「そういうことも、
 多いだろうなぁ。」

と僕は思いました。

そういうことを指して、
釈尊は、

「役に立つためには、
 そういう風に動いた方が、
 作戦として論理的だよ。

 そして、
 なにかしら“役に立つ”ことは、
 自分がここにいることを、
 とてもエンカレッジ(励ます)するし、
 実はとても、おもいしろいことだよ。」

てなことが、言いたかったのかなぁ。
なんて、想像しました。

そして、

「深い自我」

と呼べるようなものがあるとしたら、
それは、

「目的を設定するもの」

なのかもしれないね。

「目的」が違うと感じたら、
そのチームのために、
動く必要なんて、
ちっともないって僕は思いますし、

むしろ、どうしたら、
そこから離れられるか、
目的を変えられるか、
考えなくちゃならない。

僕が欲しいものは、
たぶん、
目的を設定し
全力を尽くそうとするタイプの自我、

そして、
役に立つために、
実際に動くために、
時にあるタイプの自我から距離を、
とろうとすることなんです。

そう想像したりします。


でも「じゃまな自我」みたいなものが、
突き動かしてきたものも、
あまりにも多いんだろうなぁ。

そして「チーム」は、
「ひとりの個人」
の中にもあるんだろうね。


ミッセイ

*追記*

上の文章は、
ずいぶん前(20日前ぐらい)
に書いたものなので、 
すこし、後から気付いたことを書きます。

「自我を消す」

ってことを、
ある程度、突き詰めて考えると、
ひろーい意味での、

「商品」
(時間とかを含めた
 コストをシェアして受け取ってもらうもの。)

を作り出すための、
とても有効な手段なのかもしれないな。

瞬間の中で、

なにを見たいか、
どんな言葉が欲しいか、

耳や体や心を澄ませる。

その中で、自分という存在が、
ふっと、あやふやになる。

そこに、
自分の中の、

「知らない誰かのような存在」

そして、

「いままで現れることのなかった自分」

のようなものを、
自分自身の中に発見し、

心、震える。

その震えが、誰かに伝わる。

抱きしめ合うように、
暖かく視線を交わすように、

温度を交換し合う。

そこに、とても自立的な、

「自我の消滅」

のような存在の雰囲気を僕は、感じました。

その光景って、
ちょっと見てみたいよ。


(追記を書いてから、
 また20日ぐらい経過しました。)


あれから、自分の中でも、
いくつかのことを、
考えた気がするけれど、
上の内容と、今の気持ちに、
大きな差を感じないので、
この文章を送信したいと思います。

ただ、

「苦しみやよろこびを伴って、
 自我とか自分のこころを経過させること。

 自分を舞台から、
 除いて考えないこと。」

これは、
やっぱり大切なんじゃないかと思いました。

そして、

“心とからだ”

に分けて考えて時の、
「からだ」の大きな特徴って、

「“自我”がついてくる。」

ってことかもしれないね。

体を動かすと、
誰かでも、なにかでも、なく、

“自分”が、
受け取らなければならない、
なにかしらの効果が必ず作用するから。

「身体の重要性の指摘」

なんて、言われても、
ピント来なかったけど、

身体性ってのは、

「ちゃんと、
 “自分”の心もつれてゆけよー。」

ってことかもしれないな。
それが経験とか体験とか
いうことなのかな。

***

なにか、
自我の消滅って、

消滅というよりは、

僕が僕であること、
あなたが、あなたであることの、
境界線がひどく曖昧な世界なんだろうな。

自我をジャンプするみたいな。

そのジャンプは、
ジャンプのための助走として、
時に深い深度の自我を求めるのかもね。

そのイメージは、
すこし、僕の想像の中の死と近い。

生の対極としての死としてだけではなくて、
生の奥まった所や、
意外なほどすごく近くに、
しっかりと、ぽつんと存在する死と。

***

仏教、というか宗教全般は、
一部として言っていいなら、

「生きながら、
 “物語”としての死を表現する。」

という成り立ちをしているんだろうな。

「“死”のことは、死んでみないとわからない。」

というのも、
ひどくまっとうな言い分のように、
僕には、思えるのだけれど、それでも。


ミッセイ

お知らせ。
四国88カ所のお寺が88枚の切手になります。
原画の撮影は「坊さん」の文章の中でも、
何度か登場した三好和義さんです。

栄福寺は11月5日発売の第一集、
20ヶ寺の中に収録されます。
(紅葉が綺麗な秋の風景)

全国の郵便局でも、
通信販売の申し込みが出来るようですよ。

詳しくは、こちらまで。
シンメディアという出版社刊行の
『季刊 巡礼マガジン』
というシブイ名前の雑誌で、
「おもいだす空海」という連載を、
最新号の31号から始めました。
(ほぼ日を読んだ編集者の方から、
 お話を頂きました。)

空海の著作の言葉に、
僕が短いコメントと、
写真を添えるという、
見開き2ページでの連載です。

手に取られる機会があれば、
ちらっと覗いてみてください。


このページへの激励や感想などは、
メールの表題に「ミッセイさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2004-12-01-WED

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