第186回 あいまいな落とし所
ほぼにちは。
ミッセイです。
なんとなく、
僕が住職になってから買った
わげさ(輪袈裟、
お坊さんがよく首からかけている、
わっかになった袈裟です。)
を並べて見ていたら、
ほとんど全部が、
くすんだ色で、
紋(もん)の入ってないものであることに、
気付きました。
装飾の着いた派手な袈裟も、
宗派の紋の付いた袈裟も、
じいちゃんが、
いくつか持っていたので、
必要な時には付けますが、
僕は、買っていません。
これは、
仏教が探しているものを想像した上での、
ちょっと意識的な行為なんですけれど、
(何かに対しての否定的な行為ではなくて、
自分のサイズでの意思表示として。)
じゃあ例えば、
「それじゃあ、
あなたは肉食しないべきだ。」
とか、
「これから、
女性の体に一生、触れないんだよね?」
という話になると、
(なるよね。)
「すまん!」
とたぶん言ってしまう、
一般的、日本のお坊さんです。
それどころか、
「次の栄福寺の車は、ローバーのミニがいいなぁ。」
とか時々、考えたりしています。
(たぶん、実行しないけど。)
こういう部分の、
“落とし所”
というのは、
すごく微妙だけれど、
自分の歩く道の、
結論はどうあれ、
落とし所を、
「考えること。」
「とりあえず決めること。」
というのは、
わりと大切な事かもしれないな。
生きる事って、
わからないことが、
たぶん、すごく多いから、
いろいろなものが、
“落とし所”
みたいなものなのかもね。
***
かなり前のことだけど、
いまでも、
よく思い出すことが、
栄福寺でありました。
ここでは、
詳しくは書かないけれど、
栄福寺をお参りに来たある人が、
お堂の建物を損傷する可能性が、
すごく高いことを、
勝手にしていました。
僕は、思わず飛び出していって、
「やめてください。
話が違うじゃないですか。」
という意味のことを言ったのですが、
(そんなに丁寧じゃないかも。)
その時、自分の受けた感じを、
よく思い出します。
自分が汚されたように、
侮辱されたように、
強く感じて、
すごく、
興奮して暴力的な気持ちになったんです。
そして、口論になった場合、
相手の暴力がこちらに、
降りかかって来るという
恐怖を全く感じませんでした。
(けっこう、怖そうな人だった。)
それで、
そのあと冷静に考えてみると、
「あそこまで、
自分という存在と、
栄福寺という存在が、
ひとつになってしまうことは、
たぶん、よくないことだな。」
と、
かなりはっきり感じました。
実はと言うと、
自分は、
宗教やお寺に対して、
「冷静すぎるぐらい、冷静かもしれない。」
とどこかで、感じていたので、
すごくホットな体温を感じたのは、
必ずしもイヤなことでは、
なかったんですが、
それでも、
“一緒”になりすぎるのはよくないと、
思いました。
それはある意味、
僕の自己防衛的な直感でもあって、
「栄福寺の住職」
というものを自分の、
“よりどころ”
みたいなものにしてしまうのは、
すごく、
人間として小さすぎるし、
(「わて、社長でんねん。」みたいな。)
本質的でないし、
格好の悪い話だという感覚があるからです。
もちろん、
すごく愛情はありますし、
それは僕にとって何にも代えがたい、
大切な存在だけれども。
じゃあ、
なにを自分の
“ゆずれないもの”
“よりどころ”
みたいなものにするかと考えると、
今までの僕ならば、
「自分が自分であること。」
と考えたと思いますし、
今でもそういう部分は、
想像としてあるのだけれど、
なにか、今、最新の僕の感覚では、
この僕のボディーも、
そして心までも、
けっこう
はっきりとした、
「かりそめ感」
が、あるんですよ。
みなさんは、ないですか?
(ある人、募集中。←ウソ)
それは、
自分が自分であることを、
はっきりと感じられないとか、
そういう感覚ではなくて、
僕がはっきりと僕でありながら、
そこに、はっきりとした、
かりそめな気分があるんです。
僕は、そのことを考える時、
よく、
プランクトンみたいな
一カ所に無数にいる、
海中の微生物のことを考えるんです。
そして、
自分とプランクトンが
似ている部分のことを、
想像します。
たぶん、ひとつの生命体として、
とてもたくさん似てる部分がありますよね。
そして、
ちっとも、
説明になってませんが、
その事を思うと、
僕はなんだか、
すごく、
あやふやな
かりそめな気分になるんです。
また、
「自分は動物として生き、
動物として死ぬんだな。」
という思いを強く喚起させらます。
(当たり前のことでは、あるのですが。)
「こんなこと考えると、
釈尊は残念に思うかな。」
とちょっと思うのですが、
僕達が、
少しばかりの
客観的な態度とか視線を抱えながら、
あまりにも、
動物的な動物として生き、
動物として死ぬことを、
認めて感じているとしても、
(そして、それが実際の話だったとしても。)
釈尊や長い歴史をかけて仏教が、
放ったメッセージは、
「こんな要素も使って
“生きること”をもう一度、
感じてみると、
今までに持ったことのないような感覚の、
“自由”のようなものに、
触れることが、
できるかもしれないよ。」
とか、
「こんな感覚を使ってみると、
今まで感じてた、
自分のボディーとか
自分の“りんかく”に、
他の何かが加わるのを、感じない?」
とかっていう風に、
少なくないメッセージがあると感じるんです。
「生きる意味なんて、いらないんだよ。」
という言葉は、
どこか本当の事だと思うし、
僕がその意味みたいなものを、
強烈に求めているわけではないのだけれど、
僕は、
よくその事について考えてしまいます。
それは、
僕にとって、
自分や誰かへの、
「メッセージ」
という言葉で、
示したくなる時もあるのですが、
正直に言うと、
よくわかりません。
たぶん、
ずっとわからないものだから、
「可能性を想像して、
予感として、動く。
自分の落とし所だと思った所を
曖昧にめがけて、
わっか投げをする。」
みたいなことが、
僕の“生きること”の、
今、この瞬間のイメージです。
「余裕のない人は、とにかく生きる。
余力のある人は、
悲しみや苦しみや退屈を認めながら、
うれしい、
おもしろいと予感する方向へ進もうとする。」
なんてすごく単純に捉えてみたいと思っています。
もしかしたら、
「可能性を想像して、
予感として、動く。」
ていうことって、
宗教というものの、
結構、基本的な態度かもね。
想像は直感にもなり得るのだろうけれど。
論理的な確実性を求める方法だと、
ほとんどの宗教は、
証明はできないと思うのですが、
生きる事って、
たぶん、すごく、わからないよ。
だから宗教が正しいとか、
もちろん
そういう話ではなくて、
やはり
どこか便利で、
体温を持ったものだと僕は予感するな。
ミッセイ
お知らせ。 |
四国88カ所のお寺が88枚の切手になります。
原画の撮影は「坊さん」の文章の中でも、
何度か登場した三好和義さんです。
栄福寺は11月5日発売の第一集、
20ヶ寺の中に収録されます。
(紅葉が綺麗な秋の風景)
全国の郵便局でも、
通信販売の申し込みが出来るようですよ。
詳しくは、こちらまで。 |
シンメディアという出版社刊行の
『季刊 巡礼マガジン』
というシブイ名前の雑誌で、
「おもいだす空海」という連載を、
最新号の31号から始めました。
(ほぼ日を読んだ編集者の方から、
お話を頂きました。)
空海の著作の言葉に、
僕が短いコメントと、
写真を添えるという、
見開き2ページでの連載です。
手に取られる機会があれば、
ちらっと覗いてみてください。 |
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