第188回 こめられた時間の大きさ。
ほぼにちは。
ミッセイです。
僕の住職をしている栄福寺は、
四国88カ所の札所なんですが、
(57番札所です。)
四国遍路を廻っている
お遍路さんの中には、
お坊さんもかなりいます。
毎年、年末には、
真言宗の京都の修行道場から、
たくさんの若いお坊さんが、
団体でお参りに来られますし、
(動画が再生されない場合は、
QuickTimeをインストールしてください)
近くのお寺の副住職さんも、
最近、
個人的な歩き遍路を終えられました。
「個人のおもい」と「組織のかんがえ」とか、
「観光」と「修行」とかって、
すこし出会いにくいし、
同じ場所に発生しづらいと思うのですが、
この四国遍路には、
そういうものがリアルに混在していて、
なかなかユニークな度量を持っているようです。
なんか、うれしいよね。
そういうものがあるってこと自体が。
この「坊さん」の連載をしていると、
いろんなメールをいただき、
その中で、自分がなにかを思いつく事が、
たまにあるのですが、
年末にいただいたメールに答える中で、
「宗教は、
自分の“わくぐみ”みたいなものを、
“自分”以外にも想像したり、予感したり、
感じたりすることかもしれませんね。」
という思いが、
湧いてきました。
それは、もちろん、
世界だったり、宇宙だったり、
誰かだったりも、
するのだろうけれど、
うまく言葉では、
言い表すことができないけれど、
どうしても、
口に出してその“なにか”の名前を、
呼んでみたくなった人が、
神や仏の名前を、
わくぐみを確認するように
発するのかもしれないね。
例えば、
自分の感じた光を、
「光」と言っただけでは、
違和感を感じた気持ちが、
「阿弥陀如来!」
と叫んだのかなぁ。
ということを考えたりしました。
そして、
「光」と「阿弥陀如来」だけでは、
表現できない、
“僕”の
「ひかりみたいなもの」というのが、
あるはずなのだから、
それに、
自分だけの説明文を書き出したり、
名前を書き加えるというのは、
すごくおもしろく、
うれしいものだと僕は感じています。
これには、
宗教を持たない人にとっては、
違和感の感じる言い方かもしれません。
「それって“光”と、
自分の中の“ひかりみたいなもの”の、
ふたつでいいんじゃない?」
という疑問があると思うんです。
「仏とか神というのは、
“だれか知らない他人が”
呼んだ名前なんだから、
ひとりひとりが、
自分の“神の名前”を呼ぶだけでいいんじゃない?」
ということだと思うんです。
これは、
宗教の結構、
根底にある疑問だと思うので、
僕もたまに考えたりするんですが、
それって、
「時間への信頼」
みたいなものだと思うんです。
つまり、
神とか仏の名前というのは、
何代もの人間達によって、
「受け継がれてきた名前」
ですよね。
ここ何百年で、
考え思いついた名前じゃない。
そのかけられた時間に対する、
信頼の感情が、
僕達に信仰と呼べるような、
感情を思わせるのかもしれません。
そして、
たぶん、人間って、
宗教という形をとらなかったとしても、
何かを信じたり愛したりしたいんだよね。
それが、可能であるとしたならば。
だから、
巡礼の旅に出たり、
出会いを待ちわびたりするんだろうと
思うんです。
僕が、
「時間への信頼」
ということを、
感じたのは、
「自分が自分にかけた時間」
というのが、
結構、馬鹿にならないなぁ、
と思った時に、
強く感じました。
住職というのは、
広い意味で総合職みたいな部分があって、
いろんな分野の専門家と、
話すことがあるのですが、
「まぁ、専門家の言うことだから。」
ということで、
そのまま話を進めていたら、
「しまったなぁ。
自分が最初に思ったイメージで、
進めるべきだったなぁ。」
ってことが、
けっこうあったんです。
その時、
「あたりまえだよなぁ。
自分はこればっかり考えてんだから、
積み重ねた時間は、
比較にならないほど、
自分の方が多いもの。」
ということを思い、
「自分が自分にかけた時間」
というものの量の多さを、
思い知らされました。
それはたぶん、
結構、信頼に値することが多いと思うよ。
そして、
「宗教へ込められた時間」
を思い、
なんだか、
自分が古いお堂を立て直したり、
大きい木を切るのが苦手なのは、
そういうものを、
「込められた時間のシンボルのようなもの」
って無意識に感じてるのかも、って思いました。
この考えって、
否定することは、とても簡単なんです。
「それでは、
新宗教は宗教ではないんですか?」
「お釈迦さんが生きている時、
仏教は新宗教でしたよね。
その時、“込められた時間”なんて、
存在しないじゃないですか!」
そういう風に、
例えばテレビの討論番組で指摘されたら、
僕は、うまく、答えることができないと思います。
でも、まぁ、実際、残ってんだし、
なんか、あるんじゃない?
だって、そう思うんだもん。
なんとなく、好きなんだから、
説明なんて、できないよ。
結構、そんな、
雑な感覚が僕にとっては、
わりとソウルフルな気がします。
僕達が、
“なんとなく”
の領域で考える事って、
膨大だしねぇ。
「自分に自分がこめた時間の大きさ」
「なにかに込められた時間の途方もなさ」
その両方に敏感になると、
なにかを決めたりすることに、
役に立つことが多いと僕は思いました。
ミッセイ
お知らせ。 |
四国88カ所のお寺が88枚の切手になります。
原画の撮影は「坊さん」の文章の中でも、
何度か登場した三好和義さんです。
栄福寺は11月5日発売の第一集、
20ヶ寺の中に収録されます。
(紅葉が綺麗な秋の風景)
全国の郵便局でも、
通信販売の申し込みが出来るようですよ。
詳しくは、こちらまで。 |
シンメディアという出版社刊行の
『季刊 巡礼マガジン』
というシブイ名前の雑誌で、
「おもいだす空海」という連載を、
最新号の31号から始めました。
(ほぼ日を読んだ編集者の方から、
お話を頂きました。)
空海の著作の言葉に、
僕が短いコメントと、
写真を添えるという、
見開き2ページでの連載です。
手に取られる機会があれば、
ちらっと覗いてみてください。 |
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