第194回 どんな風景にいたいか。
ほぼにちは。
ミッセイです。
僕は“坊さん”という、
はっきり言って、
かなり変わった職業を持っているので、
何度も頭の中で、
“振り出し”
に戻って、
「僕はどんなことをしたいんだろう?」
と考えることが多いです。
(みなさんもそうでしょうけれど。)
今日も紙に図を書きながら、
栄福寺の仕事を受け取る人を、
いろいろなタイプに分けてみたり、
「買える仏教。持てるお寺。」
ってなんかのキーワードに、
ならないかなぁ。
なんて考えながら、
メモ用紙を増やしていました。
そんなことを考えていると、
ふと、
ひとつひとつの具体例ではなくて、
「なにをするか、なにをしたいか。」
を導き出すための、
自分にとっての軸になるような、
言葉というか“感覚”に、
会えた気がしたんです。
それは「風景」という感覚でした。
「風景」が本当に広い意味で、
使える感覚、言葉だと僕は思ったんです。
例えば、
お守りの売り子として、
僕が納経所に座っている時、
(こういう仕事は結構多い。)
その場面を「風景」として捉えて、
その登場人物の僕は、
どのように振る舞いたいのか。
どんな風景が好きなのか。
墨で字を書く時、
(今でもすごく苦手な分野ですけれど。)
今から自分が加える風景に、
どんな形の黒を置くと、
僕は気持ちいいのか。
そんな風に考えられるんじゃないかな?
って、考えたんです。
これは、
いろんな場面で使えそうなんです。
人と接する時、
誰かに汚い言葉をはきたい時、
物を買う時、
何かを動かす時、
そのひとつひとつの
行為とか決定によって生まれてくる、
「次の風景」
を予感して、
「僕はそこにいたいのか?」
と自問する。
そういう感覚は、
なにかを決めにくい場面とかで、
もちろん、
計算機みたいには、
正確じゃないだろうけれど、
結構、便利に使えるんじゃないかと思いました。
この感覚を、
「物事を俯瞰的に見るってことね。」
なんて、
簡単に済ますことは、
もちろん簡単なのですが、
「風景にしてみる。」
というのは、
僕にとっては、
とても感覚的にわかりやすい言葉でした。
自分の目が見ている光景も風景なのだけれど、
自分自身をひとつの風景だとしっかりと確信する。
なぜだかわからないけれど、
僕はそのことが、
とても大事なことのような気がするんです。
そして、
ひとつの風景としての自分は、
小さくても確実に
世界とか人、社会、
宇宙なんかに影響を与えるって思います。
それを考えると、
宗教が個人の心や身体にかかわることで、
「何がしたかったのか。」
そんな事を考えるヒントになるような印象を受けます。
たぶん、
いい風景にいたかったんだと思うんだよ。
うれしい、おもしろい、気持ちのいい風景に。
「世界は美しい」
お釈迦さんは、
そんな言葉を生涯の中で、
発したということですが、
彼の見た風景は、どんな風景だったんでしょうね。
そして、僕はどんな風景にいたいだろう?
ミッセイ
お知らせ。 |
四国88カ所のお寺が88枚の切手になります。
原画の撮影は「坊さん」の文章の中でも、
何度か登場した三好和義さんです。
栄福寺は11月5日発売の第一集、
20ヶ寺の中に収録されます。
(紅葉が綺麗な秋の風景)
全国の郵便局でも、
通信販売の申し込みが出来るようですよ。
詳しくは、こちらまで。 |
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