第197回 好奇心が志を持った時
ほぼにちは。
ミッセイです。
最近は、
雨が多かったので、
栄福寺にやって来る、
歩いているお遍路さんは、
なかなか大変そうでした。
そんな中で、
印象的だったのが、
カッパを着て、
二人で歩き遍路をしている、
おじいちゃんと、
その小学生ぐらいのお孫さんでした。
雨が強くなったので、
栄福寺の公衆電話から、
タクシーをおじいちゃんが呼んでいたのですが、
その時間を利用して、
お孫さんが、
なすびの「ボケ封じお守り」を、
おばあちゃんに、
「健康守り」を、
お母さんに買っていました。
「お母さんには、
ボケ封じはまだ早いもんね。」
と僕の母親に声を掛けられた彼は、
「えーまぁ、
いろいろ、
いざこざがありまして。」
と大人のような深刻な調子で、
急に話しだしたので、
思わず笑ってしまいました。
昨日お参りに来た、
小さな女の子は、
「“幸福守り”を買ったら、
もっと幸せになったりして!」
と笑っていました。
少し前に、
聞こえてきた会話の中である人が、
「心ってのも、
その人のクセのはずなんだけどねぇ。」
ということを、
言っていて、
「ああ、そうだなぁ。
おもしろいなぁ。」
と思いました。
この言葉を僕は、
「体の形や大きさが、
人によって違うのと同じように、
自分を自分と感じる、
他人と区別するのも、
同じような心のクセなんだ。」
みたいな感じでイメージしました。
そして、
子供の頃によく感じていた、
「この僕が、
“いる”という感覚って不思議だなぁ。
この僕が、
“いなくなる”という感覚って、
すごいイメージしにくいなぁ。」
ということを、
鮮明に思い出しました。
そして、
「自分はどうして、
自分を、
かけがえのないものとして、
“執着する”対象として、
考えることができるのだろう。
考えてしまうのだろう。」
ということを、
考えていました。
すごく、
多くの人がそうだと思うんです。
なにもかもうまくいかなくて、
自信をなくして、
肩を落としている人も、
自分を自分として、
認めて、
他人と分けて
考えているからこそ、
肩を落とすんだしね。
僕は、
「あるまとまりを持った、
全体の部分としての、
“自分”が、
そういうふうな、
“心”を持った方が、
(なにかにとって)
より“有効”であると判断する、
自分を含んだ大きな構造を持っているから。」
と思いました。
よくわかんないけど。
「そっちの方がいい」
となにかが、
認識したような気がするんです。
そういう風に考えてみると、
僕の中での、
“仏教”
が持っている、
モチベーションのイメージって、
“好奇心”に近いような気がするなぁ。
仏教って、
大原則として、
人間が生き物として、
持っている、
その利己的な部分を、
否定しようとしていると、
僕は思っています。
それは、
どこか、
「道徳的」
というか、
「正義」
みたいな
イメージで見てしまいがちなんですが、
誤解を恐れずに言えば、
それって、
「知的好奇心」
に、
すごく近いもののような気がしたんです。
とても本質的な意味で。
その好奇心は、
「ここはどこなのか。」
「自分は誰なのか。」
「ここは誰なのか。」
「この利己心はなんなのか。」
とかっていう好奇心のような気がします。
利己心の性質や正体に近づくための方法論として、
そこから離れて、それを見てみる。
命を見るために、
命から離れてみたり、
違う場所から命に手を伸ばそうとする。
それは、まるで、
大きな何かにアクセスするために、
僕達に組み込まれた
原始的な性格みたいなものを、
一部解除したり、
後付で付け加えられたソフトを、
アンインストールするような
イメージを僕は持ちました。
パソコンを買うと、
トラブルがあった時に、
出来る限りの修復を試みたり、
とにかく一番最初の状態にする、
「リカバリーCD」
(でしたっけ)
が付いてきますよね。
もちろん、
“部分”
として僕は想像しているんですが、
仏教って、
そういう性格を、
少なからず持っているのかなって思いました。
だから僕は、
いろんな人達が、
「そういうことを考えて生きる。」
のも、
「とにかく、がむしゃらに生きる。」
のも、
「10年に一回ぐらい、
そんなことも考えちゃう。」
っていうのも、
正しい道なんてないし、
どう考えても、
選択自由なんじゃないかと思います。
だから、
「これこそ、
人として生きる道じゃ!」
みたいな言い方は、
とても人を惹きつけることがありますが、
僕は、
そういう人を見たら、
「ホントかよ。」
って思ってしまいまいます。
(単に威張っている人が
苦手なのかもしれないけれど。)
でも、
たぶんとても大事な話だと考えるのですが、
「知的好奇心」や「世界観」から、
ある種の「志」(こころざし)やメッセージが、
発生することもあるだろうし、
その部分がすごく、
宗教に近い場所にあるような気がします。
「好奇心が志を持った時、
それは宗教になることがある。」
ある意味で僕は、
本気でそう考えています。
でも、
僕は正直、
今日書いたようなことよりも、
「さみしいことも、
悲しいことも、
しんどい事もいっぱいあるけど、
いい顔であれたら、
それが大切なひとつの正解。」
と、
単純に考えることの方が、
好きな気がしています。
両方が、
自分の中にあると思うんだけれども。
そして、
いい顔はいい場所以外にも、
その途中とか、
顔を向けて歩き始めた部分にも、
あると考えています。
それに、
僕や宗教が役に立つとしたら、
ストレートな坊さんの仕事だろうなぁ。
最近、
ちょっと、
びっくりしたんですが、
“僕”ってどうやら、
「役に立ちたい。」
と、どこか本気で思っているみたいなんです。
そして、それをうれしいと感じるみたい。
それが、
「利己心」
と全く同じような、
「システムとしての欲望」
だったとしても、別にいいよ。
かまわない。
僕は、まず、
自分がひどく利己的な人間であり、
無茶苦茶「役に立ちたい」
と思っていることを、認識したい。
そして、思うのですが、
認識や確認から、
始まることは少なくないし、
だからこそ、
仏教はあんなにも、
心について語っているんじゃないかなぁ。
***
今日は休みなので、
うまいコーヒーを飲みに行きますっ!
豆も買おう。
ミッセイ
お知らせ。 |
四国88カ所のお寺が88枚の切手になります。
原画の撮影は「坊さん」の文章の中でも、
何度か登場した三好和義さんです。
栄福寺は11月5日発売の第一集、
20ヶ寺の中に収録されます。
(紅葉が綺麗な秋の風景)
全国の郵便局でも、
通信販売の申し込みが出来るようですよ。
詳しくは、こちらまで。 |
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