第198回 ここに生きて、光を放ちたい。
ミッセイです。
栄福寺の先代住職である、
じいちゃんが何十年も前に買って、
使っていたカメラのレンズが、
好きで、時々使います。
そのレンズは、
撮った場所を流れている“水分”のようなものが、
たくさん写真に写り込むような気がして、
ポートレイトを撮りたい時とかに、
よく使っていました。
でも、
なにせ古いカメラなので、
なにかと故障が多くて、
しまっていたのですが、
フリーペーパーの表紙を
撮る仕事(お金を少しくれた。)
をしていた時、
いちいち松山のラボに
プリントに出すのが大変だったので買った
一眼レフのデジタルカメラに、
その古いレンズが“させる”という、
意外な事実に気が付いて、
そのレンズで、
じいちゃんが何度も見たであろう、
おばあちゃんや、
雨上がりの道を歩く寺の近所の、
大工さんの後ろ姿を撮ってみました。
やっぱり、
人とか空気の“水分”が、
いっぱい写る気がするなぁ。
どうしてだろう。
その古いレンズを手にとって眺めながら、
どうして、
自分が古いものを見たり触ったりすることが、
気持ちよく感じることが多いのかということを、
考えていました。
だいたい、
僕のこういう問いかけには、
いつも答えはないのですが、
その時は、
あるはっきりとした考えが、
頭に浮かびました。
「古い時間を感じられるということは、
同じ重さの時間を持った、
未来を感じることができるということだ。」
ということです。
古いお寺の建物に静かに立つ時、
池の前に何百年と時間を重ねた
クスノキを見上げる時、
僕達は、
“今”という地点から、
後ろ向きの目線だけではなくて、
“これから”前方に飛びあがろうとする、
たくさんの時間を、
光のようなスピードで見据えて、
どこか自由なフィーリングを感じるのかもしれません。
そして、
思うのですが、
その未来は多くの場合、
自分の生を含まない未来です。
つまり、
100年前のお堂を見て、
100年後のこの場所をイメージする時、
その場所に自分はいません。
僕は今日、
行ってきた法事で、
「宗教がわりと興味を失われずに、
今の時代まで続いていることは、
今日のように、
僕達が“死ぬこと”を
考えたり想ったりしたいからだと思います。」
という話をしたのですが、
古いものの気持ちよさには、
未来のどこかの時間の中で
自分が死ぬということの
“まっとうさ”のようなものが、
無意識に組み込まれているのかもしれません。
そんなことを、
考えてみると、
僕がたくさんのお葬式の中で、
なぜかよく感じる、
「生きていることを、
底のほうから励まされる感覚」
というのが、
感覚的にすんなりいくような印象を受けます。
そして、
「四国遍路」
のような場所も、
もしかしたら、
無意識に、
「死ぬことを納得したくて。」
廻っている人も、
多いのかもしれないなぁ、と思います。
でも、
古いうしろを見るのも、
新しい未来を感じるのもおもしろいんだけど、
今ここに生きて、
光を放とうとすることでも、
両方、勝手に付いてくるのかもしれませんね。
ミッセイ
お知らせ。 |
四国88カ所のお寺が88枚の切手になります。
原画の撮影は「坊さん」の文章の中でも、
何度か登場した三好和義さんです。
栄福寺は11月5日発売の第一集、
20ヶ寺の中に収録されます。
(紅葉が綺麗な秋の風景)
全国の郵便局でも、
通信販売の申し込みが出来るようですよ。
詳しくは、こちらまで。 |
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