第222回
徳島大学の公開講座
―SING A SONG そしてJOY―
ほぼにちは。
四国の坊さん、ミッセイです。
この「坊さん」の連載、
今年もマイペースで四国のお遍路さんのお寺、
栄福寺からお伝えしますねー。
先日は公開講座の講師として、
徳島大学で話をしてきました。
最近は、
公開講座も色々、
おもしろいものがあるみたいで、
僕を招いてくださった先生は、
ホノルルマラソンにみんなで、
参加するという、
公開講座も担当されているということです。
僕が担当した講座は、
「空海と歩く〜四国伊予遍路〜」
というタイトルのついた、
8日間、愛媛の四国遍路を歩いて廻るという、
なかなか気合いの入った講座なのですが、
歩き始める前の“講義編”として、
「住職の話でも聴いてみよう!」
ということで、
僕が招かれたようでした。
「坊さんの仕事ってなんだろうなぁ。」
と考えた時、
いつも結局たどり着くのは、
「僕自身が仏教や(空海の)密教を味わって、
それを、受け取りやすい形で伝えること。」
ということです。
ですから、
今回のような話は、
すごくうれしかったです。
自分の実力不足、知識不足、体験不足を、
思い知らされる場面でもいつも、
あるのですが、それでも。
講義では、
大きく風呂敷をひろげて、
「遍路の話、おシャカさんの話、空海の話」
を2時間、話してみたのですが、
自分にとっても、
以前、読んだ空海さんの言葉を思い出し、
知らなかった仏伝の中での、
おシャカさんの言葉を知ることは、
うれしい時間でした。
(準備の時間を含めて。)
その中でも、
空海さんが24歳の時に書かれた、
お坊さんになる決意の書の中で、
(『三教指帰』さんごうしいき、という作品です。)
「晴れ渡った夜空に
天体が拡がるのと同じぐらい当たり前に、
人が感動すると、
人はいつでも筆をとって、
詩や作品をつくってきた。
それが聖人であっても、凡人であっても、
昔であっても、今であっても、
どうして、
その胸の中の想いを語らずにいられるだろうか。」
(ミッセイ意訳)
(「天朗らかなるときは象を垂る。
人感ずる時は筆を含む。
凡聖(ぼんじょう)貫殊に
古今時異なりと云ふと雖も、
人の憤りを写す、何ぞ志を言はざらむ。」)
(書き下し文、原文は漢文です。)
という言葉を、
みんなに紹介できて、
自分もまた出会えたというのは、
すごく、うれしかったです。
ひとことで言うと、
「SING A SONG」(歌をうたおう。)
ということですよね!
少なくても「オレは歌ってみる。」
ってことだよ、たぶん。
そして、
実はあまり話す機会のない、
おシャカさんの生き方や、
残されたと考えられる「言葉」について、
話すこともできました。
おシャカさんの、
最後の日というのも、
とても印象深いイメージです。
病に倒れたおシャカさんに、
アーナンダさんというお弟子さんが、
最後の説法をお願いします。
それに対し、
おシャカさんは、
「自分自身を光とせよ。」
という意味の、
短い説法をします。
そして、
アーナンダといつものように、
午前中は街に托鉢に行き、
チャーパラー霊樹という、
大きな木の下で涼んでいる時に、
こんな言葉を残されたと伝えられているんです。
「アーナンダよ、ヴェーサリーは楽しい。
ウデーナ霊樹は楽しい。ゴータマカ霊樹は楽しい。
サッタンバカ霊樹は楽しい。バフプッタ霊樹は楽しい。
サーランダダ霊樹は楽しい。
チャーパーラ霊樹は楽しい。」
自分の訪れた色々な場所を、
次々とあげていって、
「楽しい、楽しい、楽しい。」
って。
仏教と言えば「すべては苦である」
なんて言葉も有名だけれども、
「最後の日」の言葉は、
こんなにシンプルで素敵な言葉だったんだね。
言葉に初めて触れた時は、
思わずYUKIさんの「JOY」という
僕の大好きな名曲を、
思い出しながら感動してしまいました。
この言葉は、
パーリ語という言葉で残されているのですが、
サンスクリット語では、
また違う言葉が残されているんです。
それが、
「この世界は美しい。
人の命は甘美だ。」
というとても有名な言葉です。
僕が今、
仏教という大海原の中で、
一番好きな言葉です。
かっこいいなぁ。
* **
あまりうまくお話することができませんでしたが、
おかげさまで、
自分はうれしかったです。
招いてくださった皆さん、
集まってくださった皆さん、
どうもありがとうございました。
それでは!
今からお隣の58番札所、
仙遊寺さんの「大般若」に行ってきまーす。
1月だけで、
7つのお寺で「大般若」の儀式に行くんですよ。
ミッセイ
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