糸井 |
ビジネスやクリエイティブの世界で、まわりに
「あの人は、何かをやったなぁ」と思われている
「一級」や「特級」というような人に
実際にお会いすると、驚くんですよ。
一般的には無口だとか物静かだと
思われているような人が、
実際には相当な冗舌なんです。
ぼくの知ってるかぎりでは、
一流と言われるような人で無口な人って、
ひとりもいないんですよ。
もう、全員が「おしゃべり」と言っていいですね。
敵から見たら口がうまいと思われそうなくらい。
それはきっと、ものや人との結びつきを
絶えず意識している力があるからだと思う。
コミュニケーション能力が高いと言いますか。
思えば、経営者だろうがクリエイターだろうが
野球の選手だろうが格闘家だろうが、
「しゃべりの下手な、すごい人」って、
ほんとに思い当たらないんですよ。
しゃべりがヘタに思えるような人でも、
それはしゃべりが下手じゃなくて、
文法が特殊とでも言いますか。
「詩」として語っているんだと思うと、
すごかったりするんです。
その詩的なしゃべりの中の情報量が
ものすごかったりする。
……そういうしゃべりの能力も、
脳がうまく働いていることに関係あるのでしょうか?
たとえば、脳が何かと何かを
結びつけるということで言うと、
たとえ話を思いつく力もその範囲に入るのですか?
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池谷 |
はい、入りますね。
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糸井 |
たとえ話って興味があるんですよ。
たとえば宗教の開祖は、
みんなたとえ話の名人じゃないですか。
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池谷 |
釈迦、キリスト、マホメット……。
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糸井 |
みんな負けず劣らず、
「おまえ、たとえ話しかないじゃないか」
と言いたいぐらいの、たとえ話の洪水ですよねぇ。
それも脳の結びつける力の強さでしょうか?
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池谷 |
そう思います。
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糸井 |
「コップ一杯の水を持った男に、
お湯をやるとしよう。
男がコップの水を捨てなければ、
そこにいくらお湯を注いでも
ぬるま湯しか飲むことができない。
コップの中の水を捨てることで、
はじめてお湯が飲めるのです」
そういうたとえ話を、たしか
中村天風という人の本で読んだんですね。
その著者が出会ったヨガの行者が、
そういうことを言った、と。
で、それに続けて、
「おまえはまだ、自分のコップのなかの
水を捨てていない。
だから、わたしがいま熱いお湯を注いでも
なにもならない。まずは持っているものを捨てろ」
と言うわけなんですね。
こういうことは、よくビジネス書なんかでも、
成功体験を棄てろとか言われることとも
共通するんですけれどね。
このヨガの行者の話を読んだときには、
うまいたとえだなぁと感心したんです。
だけど、よく考えたら、
「奥義を伝えること」と「水とお湯の話」って、
ほんとは違う話ですよね?
よくよく考えてみると、
かなり違う次元の話なんですよ。
なのに、言ったほうも言われたほうも納得しちゃう。
そこがすごい。
宗教の開祖とかって、こういう技術が
天才的だったんだろうなぁと思うんですよ。
別のものどうしを結びつけちゃう能力、
それを納得させてしまう説得力。
「たとえ力」と言ってもいいんだけど。
ぼく自身でもなにかがうまく表現できた時って、
経験的にも「結びつきの発明」みたいなことが
あるような気がする。
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池谷 |
「結びつきを発明する」
って、いい言い方ですね。
今糸井さんの言った
「宗教家のたとえ話」のように、
一見関係ないものどうしに
共通項を見つけだして
あたらしい世界を見いだす能力は、
脳のはたらきがいいか悪いかにとって、
かなり大切なことでしょう。
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糸井 |
だとすると、ものまねをしている芸人さんは
共通項を見つけて再現しているから、
高度に頭を使っていますよね。
誇張によって、マネできていない部分を
見えないようにさせるとか。
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池谷 |
そうですね。その話はとてもおもしろいです。
「脳のはたらきがいい」ということに関して、
そういうところから考えはじめるのか、
と感心して伺っていました。
脳のはたらきがいいとは何だろう、
という問いを目の前にすると、科学者ならば、
「いったん、
『脳のはたらきが悪いって何だろうか?』
と反対の方向から考えてみよう」
という思考に入るでしょう。
その逆側にあるものが
「脳のはたらきがいい」ということになるから。
その手順で考えてみますと、
いくつか、ぼくなりに言えることがあるのです。
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