海馬。
頭は、もっといい感じで使える。

第44回 誤解を招く=魅力がある?




みなさんこんにちは。「ほぼ日」スタッフの木村俊介です。

二〇〇二年に出版された『海馬』(現在十四万部)には、
ほんとにたくさんの感想メールやお手紙をいただきました。

新聞やテレビや雑誌でもこの本は何度も取りあげられたり、
読んだ人が興奮してくださることもうれしかったのですが、
対談をした本人たちや、本を作ったわたしたちスタッフも、
この本によってずいぶん変わったと、実感しているのです。

『海馬』出版後、アメリカで研究をはじめた池谷さんから、
「ほぼ日」の読者にいただいたおたよりは、
たとえば、次のようなものでした。

「私がいまいる研究室には、
 大脳皮質の六層構造の秘密を探りあてるための、
 世界で最先端の装置があるのです。
 それはもう興奮の毎日です。
 刺激と新鮮味と高揚感。たまりません。
 アメリカの研究レベルの高さに
 感動する毎日がつづいています。
 もちろん毎日の実験は簡単ではありません。
 失敗と試行錯誤の連続です。
 私がやっていることは、
 未知の文明の言語の文法を
 解きあかしていくのに似ていますし、
 あまりの困難に
 投げだしたくなったことも何度かあります。
 それでも、あきらめずにアイデアを絞り出して、
 再チャレンジする。
 毎日、脳にすこしでも
 近づく戦略をあれこれ考えてます。
 ただ、困難にぶつかったとき、
 ぼくがいつも頭に浮かべるのは
 『海馬の精神』です。
 『海馬』という本に勇気づけられているのは、
 読者だけではありません。
 ぼく自身も、あの本の内容に鼓舞されて
 前進している毎日をすごしているのです。
 だからその苦労が
 なんとなくたのしかったりするんです。
 ちいさくてもいいから、今日も一歩です」

池谷さんがアメリカで研究中に提出した
研究の成果のうちのひとつは、二〇〇四年の四月、
世界でも最も価値のある科学誌のひとつ
『Science』に掲載されました。

(池谷さんが三十代前半で
 この雑誌に論文を載せるというすごさは、
 近くの理系の知りあいにたずねてみると、
 よくわかると思います。池谷さんの論文の
 タイトルは "Synfire chains and cortical songs:
 Temporal modules of cortical activity." です)

『海馬』に勇気づけられた研究が、池谷さん本人を
変えつつあるということが実際に起こっていました。
研究を成功させても、池谷さんの姿勢は常に謙虚で、
アメリカにいる最中にいただいたおたよりの追伸に、

「今日はちょっと実験がうまくいきませんでした。
 でも、こういう仕事はうまくいかなくてふつう、
 と割りきらないとやってられませんから、
 また、明日から出なおします!
 仕事はいつも前向き、これがいちばんですよね」

こんな、あたたかいコメントがあったりするのです。
『海馬』出版後にも、尊敬の念は増してゆきました。

「『海馬』が世に出て半年後、
 私はアメリカに研究留学しました。二十七か月間。
 世間的には、あっという間の長さ、でしょうけど、
 私にとっては刺激に満ちた稠密時空間でした。
 『海馬』が出版されて、海の向こうを垣間見て、
 そして、私自身が変わったと思います。
 この変化をいわゆる『成長』と呼べると爽快ですが、
 今の時点ではまだわかりません。
 でも、変化することそれ自体は
 最高に心地よいものだと感じています」

こうおっしゃる池谷さんが、
コロンビア大学での博士研究員としての
約二年の研究を終えて、
ちょうど日本に戻ってきた頃にした話が、
とてもおもしろかったので、
「ほぼ日」でも「海馬」連載を復活させました!

今月末に、『海馬』は新潮文庫版で、新たに発売されます。
今年中に、『海馬』を進化したような脳の本も出そうです。
池谷さんとの持久戦のような対談からは、たとえば、現在、

「馬鹿力を出すコツって何だろう」
「人間の本質は『ゆらぎ』である」
「愛情の器の大きさが人を決める」
「マンネリを打開するための方法」
「ほんとうのタフさって何だろう」

などの話題が、
脳の研究に則して語られているところです。
『海馬』の文庫本と、それに次ぐ単行本を、
どうぞ、期待して、待っていてくださいね。
現場できいてても、文字にまとめていても、
最新対談は『海馬』制作時をうわまわる興奮があるのです。

今日は、ひさしぶりの復活ですから、
池谷さんと糸井重里の再会風景の会話を、紹介しましょう。
七周年ですし「ほぼ日」の運営方針に関わる談話を中心に、
あれこれと、抜粋してみました。おたのしみくださいませ。

(ほぼ日の話は、文庫や新しい単行本には載らないので、
 そこは、この連載を読んだかただけが読める部分です!)



糸井 池谷さんがアメリカのコロンビア大学で
博士研究員として約二年の研究を終えて、
ちょうど日本に戻ってきたところ
(二〇〇五年四月初旬)で話をきいています。

マンハッタンのどまんなかにいたわけですが、
研究者としての
冒険旅行だったというふうにも見えますね。
池谷 二年三か月、いたんですけど、
ほんとうに長い「旅行」という感じでした。
糸井 『海馬』という本を作るために
池谷さんと話したのは三年前ですが、
あの時の会話は
ぼくのなかで、ずっと生きています。

いまも『海馬』の応用問題を
解いてくらしているような気さえするんです。
不慮の事故にぶつかっては
その経験をとりこんでゆくことが
重要なんだということなんかも、
『海馬』を出したあとのほうが
余計に身にしみてきましたし……。
池谷 ぼくもおなじです。
ニューヨークでもはじめのほうは
「なぜ日本の常識が通用しない?」
と感じることが多かったけど、
まさに『海馬』の精神の、
「偶然や事故をとりこんで
 考えを変えてゆくんだ」
というのは、自分を変えるための
ひとつのアクセルになりましたので。
糸井 思えば、『海馬』という本も、
ひとつの偶然で生まれたものでしたよね。
池谷 はい。私にとっては、おおきな偶然でした。
糸井 池谷さんと、記憶について
語りあうという座談会でお会いして、
その時にきいた脳のなかの
「海馬」という部位が、
ぼくには一種の都市のように思えました。
その町のことをもっと知りたいなぁ、
というような気分で、
また、会うことになったんですけど。
池谷 あのときは、いきなり
「海馬という題名の本を作りたい」
とおっしゃったんですよね。
なぜかときいたら「語感がいいから」と……
そこでぼくはびっくりしました。
語感なんて研究者は考えませんから。
いわれてみれば「海馬」って、
耳で聞いても目で見ても、いい触感なんです。
糸井 「海馬」って、
漢字で海の馬ですものね。
タツノオトシゴのことでもあるし。
妙に「誤解」や「想像」を
招きやすい言葉だと感じたんです。

ぼくはそもそも
「誤解を招く」というのは、
「魅力がある」ということだ、
と思うものでして。
池谷 内容も、海馬にとどまらずに、
脳、生活……ほんとに多面的になりましたね。
糸井 研究者として
それを言ってはいけないということを、
ぎりぎり言わせてしまった
可能性があるのかもしれないな、
ということは、
正直、心配していたのですけれども。
池谷 ええ。
ただタイトルにもなった
「脳は疲れない」は
今でも言いすぎとは思っていません。
体のなかの他の部位に比べれば、
やはり脳は圧倒的に疲れにくいですから。
糸井 「三〇歳を過ぎてから、
 脳はさらに飛躍的に能力がのびる」
も、冒険だったかもしれないけれども……
「それについて話したことそのもの」が、
ぼくにはおもしろかった。

その会話で、
飛躍的にのびたかもしれないくらい。
池谷 糸井さんとぼくの間で、
あの言葉を話しただけでも
おもしろいんですけど、
「人が勝手に自分で
 限界を定めているのを見るのは、
 もったいない」と、心底思いますからね。

糸井さんがおっしゃるとおり、
ふつうの研究者は発言に慎重です。
学会のほうでも
「真偽が確定していないことを
 拡大解釈してしゃべってはいけない」
みたいな勧告は出ているんですね。

ただし、
学会のメンバーの人たちのなかにも
「専門外の人と話をできるスタンスが
 これからの科学には必要なんじゃないか」
と考える人が、徐々に増えつつあるんです。
糸井 ふつうに生活している時も、
スーツでネクタイをしている時に
言える範囲と、
家でTシャツとジーンズで
ねそべっている時に言える範囲は、
おそらくちがいますよね。

建前も本音もふくめて自分なら、
白黒はっきりしない
グレーの部分については、
おたがいに紳士的にその存在を認めれば、
話はずっと豊かになると思うんです。
池谷 そこでは「紳士的」が重要です。
糸井 重要ですよね。
トンデモ本は、紳士的を逸脱していますもんね。
スキャンダラスな知識のポルノ化というか……。

ただ、
「これは言いきれないけど、
 こう考えたらおもしろいかもしれない」
「こう考えるという可能性もあるんです」
と言うのは、紳士的なおもしろさがありまして。
池谷 あの……「ほぼ日」のスタイルは、
まさに、そうなんじゃないですか。
「ほぼ日」は、批判を載せないじゃないですか。
それがすごいなぁ、といつも思っているんです。

あれはなかなか努力してはできませんから。
毎日やっているホームページに、
愚痴とかひがみとかを書かないのは、
どんなにたいへんなことか、と想像します。
糸井 そうしているみたいですね。
厳密にルール化はしていないんですけど。

ぼくの若い頃って、酒場の論争的なところで、
「じゃあおまえ、『資本論』読んだのか」
みたいな話が、かならず出てきたんですよね。

つまり「おまえは右か左か」みたいなことが
いつでも問題意識の中にある時代には、
「資本論」を読んだのかという問いは、
読んでないと言ったらもうおしまいぐらいに、
決定的なファクターとされてしまったんです。

でも、それでは、かなしいじゃないかと思う。
読んだか読まないかというだけで
話が止まっちゃうっていうもったいない。

考えるなら、誰もが感じる疑問から
考えたほうがおもしろいはずなのに、
考える材料の定義をしなおそうみたいなことで、
今日も明日も終わっちゃうのはつまらないです。
「ほぼ日」で、悪口があんまり出てこないのは、
そういうことが関係しているかもしれませんね。
池谷 ぼくはその「資本論を読んだのか?」の時代は
よくわからないですけれども、想像してみるに、
二元論的な見方が非常に強かったのでしょうね。
右か左かでも、赤か黒かでも、全般的に……。

でも今は、白黒はっきりつける
二元論的な見方が、数年前から比べても
ゆるんできているようには思うんですね。

たとえば
「巨人ファンとアンチ巨人ファンの対立」は、
二十年昔よりも今のほうがゆるんでいて、
どちらでもない中間的な立場が
認められてきているような気がします。

宗教や戦争なんかでも、
おたがい相容れないといいながらも、
ある種のバランスをとって
共存しているから今があるわけですよね。

ニューヨークという町には
世界じゅうのさまざまな宗教の人たちが
集まっていたわけですが、
だからあやういかといえば
そうでもなかったんです。
非常に安定した均衡のうえにあるというか……
日本人が住んでも居心地が悪くないんです。
糸井 かつての自分は、
ニューヨークの人たちに比べて
頑固だったと思ったんですか?
池谷 はい。

一般的な日本人なら怒るようなことが、
向こうでは
怒る価値もないようなもの、
だったりするわけです。

行列ができているのに
銀行の受付の人が
のんびり事務処理をしているだとか……

いろんな価値観を通すと
おたがいにやっていけなくなるので、
価値観の「最大公約数」のようなところで
通じあっているように思いました。

さまざまな民族が集まる都市で
「これは絶対に許せないけど、
 それ以外は許さないといけないな」
というようなところを探るようになるので、
自分の許容範囲が
すごく広がったように思ったんです。
糸井 許容範囲を広くしておくほうが、
生存戦略としても適切なんでしょうね。
そのほうがいろいろな人が
自分を生かすことができるといいますか……

「思ったことをぜんぶぶつけてみなさい」
みたいな考えはもちろんあるでしょうけど、
その衝突のコストは高いですよね。

本音をぶつけあい過ぎていくと、
おたがいが傷つかないための
防御のコストがどんどん費やされてしまう。
勝負に勝ちつづけなければいけない、
という価値観は、
どうも古いんじゃないかなぁというか。
池谷 研究者どうしも、勝ち負けよりは、
協力に向かうべきだと思うんです。





連載は、次回(来週月曜更新)につづきます。
あなたが脳について池谷さんにききたい話や、
『海馬』の次の単行本で話してほしい問題や、
こう脳を使えないもんかという悩みや疑問や、
『海馬』の感想や、この連載にのぞむことなどは、ぜひ、
postman@1101.com
こちらまで、件名を「脳」として、お送りくださいませ。

2005-06-06-MON
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