ITOI
ダーリンコラム

<わかるのが怖い、ということ>

今回は、わかりやすく言えるだけの熟成が
できているかどうかに自信がありません。
そのへん、寛容に、お読みください。

「信じられないこと」と、かんたんに人は言う。
しかし、たいていの場合それは、
信じるも信じないも、
すでに起こったことについてのコメントなのだ。

多くの場合、「理解できない!」とか
「信じられないっ」という言葉は、
もう起こってしまったことについて
発せられることがほとんどなのだ。

例えばの話で考えてみようか。

友だちの恋人を、恋してしまう。
あるいは、友だちの恋人と深い関係を持ってしまう。
というようなことは、実際にいくらでもあるだろう。

それでも、「信じられない!」という人はいる。
いいか悪いか、あるいは、あなたならどうするか、
について聞いているのではないのに、
信じられない、と言う人たちは必ずいるものだ。

夏目漱石先生が小説のかたちで、
いわゆる三角関係について
書いておいてくれて、ほんとによかった。
それがなかったら、
「そういうことはあり得る」と発言するだけで
その人がもっと責められたろう。

人を殺す。
これも、そういうことが「あり得る」と、
誰もが、ほんとうは知っている。
だけれど、やっぱり自分の身近でそういうことがあったら、
「信じられない」と思うのだろう。
信じられない、と言わなくても、
人間を傷つけたり殺したりすることは、
「理解できない」と、言われるものだ。

どうして、こうも「信じられない」とか
「理解できない」ということばが、
堂々と語られるのだろうか。
もういちどしつこく言うが、
信じられない、理解できないという言い方は、
「よい・わるい」「好む・好まない」という
価値の判定とはちがうのだ。
信じられないことも、理解できないことも、
ほんとうは、そんなに多くない。
その事実をどう考えるのか、
受け入れるのか拒否するのか、
賛成するのか反対するのか、
それとも、保留にして答えを探し続けるのか、
大人の態度とは、そういうものであるべきなのだろう。

だが、事実はいつでも新しい衣装をまとって
登場してくるものだ。
子を薬で殺そうとする母親も、
殺害した相手の首を挑戦的にさらす少年も、
実は、信じられないものではなく、
実際にあり得ることであったはずだ。
歴史のなかには、自分の子を殺害した人間は登場するし、
殺した首を晒した場所は、明確に東京にあって、
その地名はいまでも有名である。
少しも信じられなくはないのだ、残念ながら。

ぼく自身が約半世紀を生きてきただけで、
こんなことを言うのは生意気かもしれないが、
いまの時代は、いままでの時代よりも
「信じられない」「理解できない」で片づけることが
どんどん多くなっているように思える。

この傾向が、このまま進むと、
「信じられない」と言われない人間たちの資格や、
「理解できない」と思われない人間の心の範囲が、
どんどん狭くなっていって、
『何人たりとも生きる資格を持たない世界』が、
現実のすべての人間をはじき出していくんじゃない?

週に何個かの基準まで売れない商品が、
店の陳列棚から姿を消していくように、
(そういう売れないものを作り続ける人も
「信じられない」とか言われそうだね)
同じ規則をしっかり守る人たちだけが、
つまらそうに生きている社会になるはずだ。

信じられない・理解できない、ということばってのは、
実は「いままでの自分の属する集団」や、
「いままでの自分」を安定させるために防衛的に発せられた
「最後の切り札」なのだろうとぼくは思う。

理解してしまったら、その理解にあわせて
自分のいままでの考えが変わってしまうのではないか、
そのことへの怖れが、
「(理解しないために→)理解できない」と
言わせているのではないだろうか。

国際的だとか、世界につながろうだとか、
価値の多様化だとか、かけ声ばかりは、
もう長いことあらゆる人たちがかけまくってきている。
でも、「信じられない・理解できない」という
ジョーカーのようなカードをきりまくっていたら、
摩擦さえ起こらずに、すべてが痩せて、
自分自身が消えて行かざるを得なくなるだろう。

とりあえず、ま、
『新宿二丁目のほがらかな人々』など読んで、
信じられなーい、というクセからなおしていきませんか。

2000-08-21-MON

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