糸井重里

・いまここにある「なにか」よりも、
 「もっといいなにか」がある、と思うことは
 おそらく、だれにでもあるだろう。
 目の前にいちごがある。
 きれいだ、みずみずしい、おいしそうだ。
 食べてみる。おいしい。さらに食べる「おいしい」。
 ここで、じぶんが、あるいはその場のだれかが考える。
 このいちごはおいしい、だけど、
 「もっとおいしいいちごがあるんじゃないか」、
 あるいは「もっといいいちごを食べたことがある」
 と言ったとする。そのことは、まちがってはいない。
 その場が「いちごを研究している農家の集い」
 であったとしたら、向上心、意欲に満ちた人たち、
 ほめられるべき場面だということになるだろう。
 しかし、その場が、ふつうの家庭で、家族のだれかが
 わざわざ「もっとおいしいいちごがある」
 とか言い出したら、なかなか迷惑な発言になるだろう。

 あらゆるものごと、人、状況には、
 「もっといい」があるだろうよ、それはそうだ。
 いまはなくても、いずれは、どこかに、
 「もっといい」は現れてくるかもしれない。
 しかし、それは考えていい場合と、
 考えたり言ったりしてはいけない場面があるのだ。
 「A子さん、愛してます。
 あなたよりもっといい人はいるかも知れないけど、
 いま現在の最高の選択があなたなのです」というプロポーズは、 
 おそらくしてはいけないのだ。
 「もっといい」の発想や、想像は、
 していいときと、絶対にしてはいけないときがあるのだ。
 物語や伝説のなかの「偉人とか芸術家とか」は、
 いい結果を前にしても「こんなのじゃダメだ!!」と
 不満足をぶつけたりもしているけれど、それはそれ。
 海原雄山と山岡士郎じゃないんだからさ。

 地に足のついた考えや、行動をしている人は、
 「もっといいなにか」を考えることと、考えないことを、
 時と場合によって使い分けて生きているのだと思うよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
土井善晴先生の「まずくなければいい」は、金言だよなぁ。

ほぼ日ホームに戻る