糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

12月20日の「今日のダーリン」

・「おしゃべりな男はかっこわるい」という教育を、
 受けてきたような気もするが、忘れた。
 無口な男がかっこいいドラマはよくあるし、
 ぼくもそういう男のことをかっこいいと思ったりもする。
 しかし、そういう男の無口は「なにかを抑制」している
 ということの表現なのであって、実は、無口というよりも
 「抑制」がかっこいいのだという気がする。

 それはそれとして、ぼくの仕事のほとんどが
 「しゃべっている」ということに気がついた。
 ミーティング、もちろんしゃべるよね。
 相談、しゃべらなきゃはじまらないもの。
 対談や座談、談の字を見たらわかるだろう、しゃべるよ。
 報告を聞いたり判断したりについても、
 しゃべらなかったらこちらの思いも考えも伝わらない。
 ひまつぶしの雑談をしているときも、しゃべってるよ。

 しゃべっていることと、聞いていること、
 その配分は時と場合によってちがってくるのだが、
 風邪ぎみの日などは、一日の予定が終わるころには、
 すっかりのどを痛めていたりする。
 そりゃそうだよ、あれだけしゃべっていればと気がついた。
 よくそんなにしゃべることがあるものだと思うけれど、
 あるよ、いくらでもある、しゃべることも聞くことも。
 「おしゃべりな男はかっこわるい」とか、
 言われたとしても、もういまさら戻れない。

 で、さらにしみじみ思うことなんだけど、
 こんなにしゃべっていられるぼくの毎日というのは、
 聞いてくれている人たちがいるから成り立っているのだ。
 だれも聞いてくれないところで、
 ずっとしゃべり続けている人はいない。
 聞いてもらえると思えばこそ、ぼくはしゃべっていられる。
 逃げたいとか、耳をふさぎたいとか、つらいとか、眠いとか
 もしかしたら思っている聞き手もいるかもしれないけれど、
 なんとかこらえて、聞いてくれているようだ。
 しかも、夜の店とちがって、無料で聞いてくれる。
 これ、ちょっとまちがうと落語の『寝床』になりかねない。
 得意げに義太夫を唸っている旦那が、おしゃべりなぼくだ。
 「今日はたっぷり聞かせてあげるから」とか言ってね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
聞いてもらえる、読んでもらえることに、ありがたがろうっ!