糸井 |
よど号の中で、
『カラマーゾフの兄弟』を読むって、
ものすごい体験ですね。
死と生をリアルに感じますもの。 |
日野原 |
それでもね、私はその時に
五、六十枚の原稿を持っていたんです、医学の。 |
糸井 |
へぇー。 |
日野原 |
それ、爆発されたら、
まぁ死ぬか、あるいは助かるけれども、
その原稿もバラバラになってしまうでしょう。
だから、縛られてるけど、原稿を守ろうと思った。
ナワがあるけれども、
ボストンバッグをあけて、原稿を取った。
ナワはトイレに行くときだけ
緩められるから、トイレに行くスキを見て、
衣類の内側に、ワイシャツの側から、
全部プロテクターのように
原稿を押し込めたんです。
せっかく書いたから、惜しいから、って。 |
糸井 |
必死ですよねえ。 |
日野原 |
ええ。
プロテクターのようにしながらも、
こっそり鉛筆を出して、
そこらの小さな紙切れに、
彼らが向こうの通路から行ったときに
サーッとメモを書きましてね……。 |
糸井 |
それは何を書いたんですか。 |
日野原 |
彼らが何を言ったかということです。
要するに、
バックグラウンドミュージックが聞こえたら、
「これはグリーンスリーブス(英民謡)だ」とか。
「リムスキー・コルサコフの
歌劇《サトコ》の中の曲だな」とか。 |
糸井 |
いかにも、飛行機で聞こえそうな音楽ですね。 |
日野原 |
ええ。
それを4日間、もうずうっと繰りかえしだから、
今でもグリーンスリーブスを聞くと、
「あのときに、こうなったなぁ」って……。 |
糸井 |
うわぁ!
何でもしみこんじゃうんですね、
そういうときっていうのは。 |
日野原 |
ほんとにしみこんだねぇ。
それで、いよいよ私がよど号から帰って
何か考えが変わっかと言えば
書かれた歴史の本をあんまり信用しなくなった。 |
糸井 |
ははー。 |
日野原 |
歴史家は、とにかく
いろいろなことを書くでしょう?
わたしは、その事件の時には、
ずっと現場にいたわけです。
ですから飛行機の中のことは、よく知ってる。
ところが、記事を読むとまるで別のことが書いてある。 |
糸井 |
あぁ、身を持って知った、と。 |
日野原 |
あとは、
「人間のカラダというのは、不思議よね」
とも思った。
ぼくはハイジャックされてから
4日間も大便には行かなかった。
腸がとまるわけ。
絶食しても、胆汁が出たりするから
本来、便は出るものなのに、
そういう非常事態では、
すっかり身体の機構が変わるんですね。
ほとんど水もなかったし、そのうえ
中は気温が40度近くなっていたから
汗で蒸発していて、お小水なんか出ないわけ。
そもそも、
「水なんか出ないから、
トイレはきたないだろうなぁ」
と思うと、身体は行きたくなくなるのね。 |
糸井 |
お医者さんだから、
そういうことを冷静に
いちいち考えてらしたんですね。 |
日野原 |
ええ。
「ハイジャックする」と言われたときに、
僕はすぐ反射的にやったのは、ふっと自分が、
僕は今、緊張しているかどうかの調査。(笑)
脈をはかってみました。 |
糸井 |
ほんとですか? |
日野原 |
そうです。
こういう時になると、
ぼくもやっぱり緊張しているなと。
|
糸井 |
「ぼくも」って……(笑) |
日野原 |
ぼくの隣に女の人がいたの。
その女の人の脈を見たかったの。
でもね、ちょっと手を握るって
エッチな感じが、するじゃない? |
糸井 |
(笑) |
日野原 |
そうやって女の人の脈を見るのは、
ちょっとこれはぐあい悪いなと思ってね、
それはできなかった。 |
糸井 |
学問的な興味があったわけですね。 |
日野原 |
そう。
だから、自分がその時に、
動転しているかどうかを
脈で見よう、ということでして。 |
糸井 |
もう、生まれついての医者みたいな人ですね。 |
日野原 |
いやいや。
ぼくが感心したような人も、いましたよ。
横田先生という
駒込病院の副院長の方は、
ハイジャックの宣言が出たとたんに、
バッグから録音機を出してオンにしたそうです。
それはぼくでもできなかった。
そんな、録音なんてしているところを
見られたら、何されるかわからないでしょう?
それなのに上手にやったんだね。 |
糸井 |
その先生もすごいですね。
お年は同じくらいだったわけですね。 |
日野原 |
同じくらい。 |
糸井 |
はあー。
その年代の方というのは、
やっぱり育ち方が違うんでしょうか。 |
日野原 |
例えばぼくは、戦争を経過しているんです。
いま75歳以上の人は、55年前が戦争だった・・・
その頃に20歳だったわけです。
男性なら戦争に行き、あるいは
女性の場合には空襲から家や子どもを守っていた。
その年代の人はお砂糖はないし、
お塩は配給だし、ほんとに雑炊みたいなもので、
ずうっと生活をしていましたよね。
病院の食事も、その頃はひどかった……。
そういうことに耐えた年代と言えます。 |
糸井 |
そうでしょうねぇ。 |
日野原 |
大勢の人が戦死したし、
B29にはたまに爆撃されるし、
焼夷弾も日常茶飯事。
警報が鳴ると、庭に穴を掘って、
そこにトタンを入れて中に逃げこむ・・・
梅雨の防空壕は、
ジメジメしていて大変でした。
そういう死の体験を経ている人たちですから、
たしかに、突然ハイジャックに遭っても
心の準備が、多少は違うのかもしれません。 |
糸井 |
死について考えるエクササイズが、
あらかじめ、済んでいるということか……。 |
日野原 |
ええ。 |