おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson436 言葉を受け取るチカラ 「言い方」の問題ばかり、 とかく、あげつらわれる世の中だ。でも、 「受け取る」ほうにだって問題はある。 そんな問題意識を送ってくれた読者がいる。 以前、「いったんけなして、ほめる話法」を とりあげたとき、 「なぜそんな、まわりくどいほめ方をするのか」 読者はこう分析した。 <まるで花束を受け取るように> なぜけなしてほめるか。 話し手は 「ネガの力を借りる」 のではないでしょうか。 例えば、こんなことが有ります。 相手の新しいバックが可愛いな、 と声をかけると、 相手は目をむいて 「どうせ安物だから、」 と返ってくる。 ええと、クサすつもりでは無いので、 なぜ、どこが良いと思ったのか伝える。 相手はまた目をむいて 「そんなことない、最近太った自分に合わない。」 いかに真実か、証明をしなくてはならない。 話し手は口が重くなってうつむき、 聞き手は、ほらみろ、と満足そう? 誉めたい相手は、 どうせ否定してくるだろうから、 誉めたいことを一度裏返さないと伝わらないから、 とネガティブをトップにするのでは。 谷川俊太郎さんが、 TV番組「題名のない音楽会」で こう言っておられました。 「詩の朗読会で、 詩の意味はよく聞かれるが、 意味をひとつ一つ考えるのではなく、 花束を受け取るように受け取って欲しい」 ほめるときに一度下げるとは、 花束を渡して、バシーンと落された経験が語らせる のではないでしょうか。 (西牟田) まるで花束を受け取るように ほめ言葉ひとつ、 どうして私たちは、ふわっと優雅に、 受け取れないのだろうか? 「ほめ」と「けなし」は、 まったく反対の行為のようで、実は 「自己への評価」という点で同じだ。 「自分は何者か?」 私たちは、他者の言葉を通して その輪郭を感じとっていく、 だから、自己への評価を受け取ることは、 自分を映しだす鏡に向かうような、 ある種、勇気が要る行為だ。 ましてや、その評価に、誤解があったり、 ずれがあったりすると、なおさら臆病になる。 だから、「ほめ」にしろ、「けなし」にしろ、 自分が弱っているときは、 なかなか向き合えないものだ。 私も弱ったとき、 読者の方がくださるお手紙や、 編集者さんの評価や、 仕事に対するアンケートの評価の言葉に、 向かい合うのがつらかった。 花束をさしだされても、下を向いた。 手紙にしたためられた花束は、 長いこと封をあけずにいた。 でも、そうして外の情報との通じを悪くしていくと、 自分との通じも悪くなっていった。 自分は自分に語りかけなくなり、 聞けなくなり、 やがて、どうしたいのかも、わからなくなった。 その淀んだ日々に、さすがに自分でもいやけがさしたころ、 これじゃいかんと、気合いをいれ、 たまっていた自分への評価の言葉を一気に 読んだことがある。 目が覚めるような想いだった。 それらは予想以上に、心を込めて、 誠実に、言葉を選び、時間をかけて、書かれていた。 自分が恐れ、腰が引けていたような、 マイナスの評価はほとんどなく、 私の仕事が、 その人にどう喜ばれ、どう役立ったのか、 懇々と、本気で書き綴られていた。 本気さに胸を突かれ、涙が出た。 学生の純真な 「ズーニー先生って、すげー!」 というような言葉でさえ、それまで 私は気恥ずかしく、受け取る自信も資格もないようで、 気が引けて、うつむいて、ななめに通りすぎてきたが、 この日ばかりは、勇気を出し、 真正面、真っ正直に、その直球を受け取った。 そうして、ほめ言葉に、勇気を出し、顔をあげ、 数時間かけて、すべて、受け取りきったとき、 ふしぎにつきあげてくるのは、 うぬぼれなどでなく、 背筋を正されるような「使命感」だった。 いびつで、輪郭がぼやけていた自己像が、正され、 きちんとした人間の形に像を結ぶ想いだった。 同時に、自分の中から、やりたいことが突き上げてきた。 「ああ、自分はほんとうに教育の仕事が好きなんだ。 考える力・表現力を、活かし伸ばす仕事が好きなんだ。 これからも、考える力のサポートを通して、 もっともっと、その人らしい選択や、 潜在力を引き出していきたい。 そして、文章で、スピーチで、 その人らしい、その人ならではの、言葉による自己表現を、 何より私自身が、もっともっと聞きたい」と。 まるで花束を受け取るように ほめ言葉ひとつ、 受け取れないとき、 私たちはどうしたらいいのだろう? 受け取れない事情は、人さまざまで、 それを乗り越えなければいけないのかもしれない。 でも、コミュニケーション教育の現場から、 テクニックとして、ひとつだけ、アドバイスがある。 「なーんだ、そんなことか」と言われそうなことだ。 だからこそ、簡単で、だれでもすぐできることだ。 コミュニケーション力育成のために、 生徒さん同士、2人1組になって、 インタビュー形式のワークをやってもらうことがある。 そのとき、聞く側にまわる生徒さんの力が 重要になってくる。 というのも、進路や、自己表現など、 その人のアイデンティティにかかわるような 深いテーマで話をするときに、 自分の言った言葉が、 相手に受け取ってもらえるかどうかは、 話す側にとって、 その後の自己表現を左右しかねないからだ。 聞く側に、ひかれたり、顔をそむけられたり、 いやなリアクションをとられたら、 話す側は、へこむし、 あとあと自己表現の芽を閉ざすことにもなりかねない。 逆に、話す側がどんな変わったことを言っても、 聞く側に、充分を受けとめられたと感じたら、 「もっともっと表現しよう」と意欲がわき、 自分をひらいていける。 しかし、生徒さん全員が全員、 「言葉を受け取る能力」にすぐれているわけではない。 社会人や大学生でも難しい。 とくに、中学生・高校生だと、 さらに、聞く力・理解力にはばらつきがあり、 中には、家族以外の女性と、 向き合って長い話をしたことさえない男子生徒もいる。 そんなふうに、人の話を聞き・理解する能力を 充分に磨いていない人も含んだ形でワークをやるのだが、 しかし、終わったとき、ほとんどの人が、 「相手に自分の言葉を充分に受けとめてもらえた」 と深い満足をうったえる。 「こんなに自分の話を真剣に聞いてもらったことはない。 感激した」という人さえいる。 現場では、生徒に、「人の話をちゃんと聞こう」 「理解しよう」と言っても通じない。 聞き取りのスキルを持たない人には、 それらが具体的にどうすることか、 わからないからだ。 現場で、私が、「聞く側」の生徒に注意するのは、 ただひとつ、 「相手の話は、耳ではなく、目で聞く」 ということだ。 すると、スキルを充分磨いていない中学生や高校生も、 相手に、「よく聞いてもらえた」と 満足感を与える聞き手になる。 耳で聞くとは、意味を受け取ろうとすることになり、 言葉尻や、文脈につっかえる。 ところが、顔をあげて、じっと相手の顔、表情、 しぐさなどを見なるようにすると、目に神経をこらすと、 もっと全体的に、相手の想いを受け取るようになる。 これは、 「意味をひとつ一つ考えるのではなく、 花束を受け取るように受け取って欲しい」 という谷川さんの言葉にも通じるのではと思う。 言葉尻や、文脈でなく、 もっと相手の全体を、想いを受け取る聞き方だ。 まるで花束を受け取るように ほめ言葉ひとつ、 受け取れないとき、 少し勇気が要るけれど、 顔をあげて、じっと相手を見てみよう。 相手がすべて言い終わるまで、 下を向かず、目をそらさず、言葉を挟まず、 ただじっと、相手の言葉を「目」で聞ききる。 それだけでいい。 花束を受け取るチカラは そこから生まれると私は思う。 |
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2009-03-18-WED
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