質問:
保坂さんは最近、
小説についてどんなことを考えていますか?
このあいだ、
社会学者の宮台真司と対談した時に
「社会学者にとっての『社会』や、
 いわゆる世界の状況を
 分析する人にとっての『社会』は、
 だいたい息苦しいものになりがちだな」
と思ったんです。
まぁ、社会学者だけじゃなくて、
ふつうの人たちも「今の社会」を
息苦しいものだと感じているのだろうけど……。
ただ、小説で書かれたり
他の芸術全般で表現されたりするものというのは、
そういう息苦しいものでは
ないんじゃないかと思うんです。
やっぱり小説なら読んだ人の
元気の源にならないといけないんじゃないか、と。
社会学の本は現状を分析していくわけだけど、
分析の前に現状を把握しますよね。
ただその
「現状を把握する」という時点で前提として
「客観的な現状みたいなものを
 受けいれてしまっている」
ということになるんですよね。
みんな、身のまわりのことを
客観的に分析できる人のことを
「頭がいい人だ」と思いがちだけど、
たぶんそういうのは
たいした頭のよさじゃないんです。
わかりやすい例でいうなら、
岡本太郎とか棟方志功とか、
しゃべってる姿を見ているだけで
こちらの元気が出てくるような人(笑)は、
「分析」とは関係ないところにいますよね。
そういう、バカといわれても構わないから
自分の思うところにいける人のほうが
ずっとエライんじゃないかなぁ。
小説は
──ぼくが小説という時は
  芸術全般を含んでいるので
  そう思ってほしいんですが──
たぶんそっちを目指さないと
いけないんじゃないかと思うんです。
「こんな風においつめられたから、
 この人は恨みを内側にためる
 歪んだ人になってしまいました」
こういうお話が小説だと思っている人もいるし、
生いたちやトラウマを書きつづける
小説もたくさんあるけど、
そこにはワイドショーと変わらない
考えかたしかないでしょ?
「人前で嘲笑された恨みを私は一生忘れない」
こういうのは、
わざわざ小説で書かなくても
みんなふつうそう思うだろうという
理屈でしかないと思う。
キリストの
「右の頬を打たれたら左の頬をさしだせ」
のように、ふつうとはちがう考えを
出すものこそが小説なんだと思わなければ、
ふつうそう思うことだけを書いていても、
そこにはもう出口がないんですよね。
ふつうに考えがちなトラウマだとかいう前提を
どう越えるか、どう崩すのか……。
そのふつうの前提ではないほうに
どう考えるのかが問題であって、
「○○だから○○する」だとか、
「○○だけど○○する」という
よくある単純なつながりとは
ちがうものを考えるのが、
小説なんじゃないかなぁと思うんです。
世の中のコード進行が、ワイドショー的に、
分析したり斜に構えたり裏読みしたりという
方向にいきがちなんだけど……
まずはいちばんまっすぐに
「自分はこっちがいいんだ」と思える方向で
考える訓練をするほうがいいと思います。
実際そういう訓練をつづけていると
なんとなく明るくなんとなく楽観的になれるし、
ワイドショー的ではない考えかたが
身にしみこんでいくものなんですよ。
そういう訓練は反復練習みたいなもので、
いきなりはできないものですよね。
明日に続きます。
感想を送る 友達に知らせる ウインドウを閉じる 2005-06-15 
Photo : Yasuo Yamaguchi All rights reserved by Hobo Nikkan Itoi Shinbun 2005