質問:
小説を考える訓練、についてどう思いますか?
サッカーで蹴る方法を学んでも
いきなりはうまく蹴れないし、
野球のバッターは
毎日何百回もバットを振っているわけです。
小説(芸術)について考えるというのも
なんかそういう訓練に近いものなんですね。
すぐに小説を書きたがる人もよくいるけど、
そういう具体的な行動より
「この漫画はおもしろいけど、
 そのまま小説に置きかえると陳腐になるなぁ。
 なんで小説はこういう単純なことを
 しなくなっちゃったのかなぁ」
と折に触れて小説を考えることが
ぼくにとっては毎日の訓練に近いものというか、
むしろそういうことなしに書いても
「自分の考えはない」ということだから、
つまらないんですね。
すごく頭がいいし
小説もたくさん読んでいるのに
カンちがいをしている人はずいぶんたくさんいて、
たとえば奥さんが浮気している小説を読んで
「なぜ、だんなが最後に浮気を
 すんなり受けいれちゃうんだろうか。
 あの『結末』がわからない」
というようなことをいうけど……
「だんなさんは浮気を知った時に
 どういう反応をするんだろうか」
と読者が考えるところまでが、小説なんですよね。
読んで『結末』に異存があったとしても、 そもそも
結末まで読者をつれてきただけでも
すごいじゃない?
最後にだんなが何をするかは
一種の「小説家の意見」になるわけですけど、
小説家はたぶん
「意見を伝える人」ではなくて、
「状況を作る人」なんですよね。
音楽もメロディの話になりがちだけど、
まずは弦楽四重奏か無伴奏チェロかという
楽器編成こそが「表現」なんです。
そういう風なところから
考えるクセを反復練習(笑)みたいにして
つけていかないと、小説のおもしろさの
ごく一部分しかわからないと思います。
質問:
「ワイドショーと変わらない
 ふだんとおなじような考えかた」
ではない考えかたや書きかたは、
どういうものでしょうか?
小説では、論理的に
AからB、BからCと
すらすら辿れるような展開は
おもしろくありません。
池に小石を投げたら波紋がひろがるように、
いちいち気が散る人の書く小説じゃないと、
きっとおもしろくも
なんともないんじゃないかなぁと思います。
苦もなく書ける論理のつながりだけでは、
ふだんよく使っている
頭の部分しか使わないというか……
だからぼくは苦手な描写に時間をかけています。
ぼくは映像記憶がめちゃめちゃ弱いから
風景描写はほんとは苦手なんです。
だけど一生懸命に思いだしたり
もう一度その場所にいってみたり、
書きたい場所に似たところを見にいったりします。
見にいったって、また忘れてるんだけど(笑)。
でもとにかく無理なことをすることで
ふだんとちがう考えが醸成されるというか、
だからきっと
「ここにひとつ楽器を増やすと、
 バンドがまとめにくくなっちゃうんだよな」
というような楽器編成によって
なにかが進むんじゃないか、と思うんです。
明日に続きます。
感想を送る 友達に知らせる ウインドウを閉じる 2005-06-16
Photo : Yasuo Yamaguchi All rights reserved by Hobo Nikkan Itoi Shinbun 2005