質問:
更に「小説を考える」ということをうかがえますか?
将棋の羽生善治と一度公開で話したことがあるけど、
ものすごい専門的な話に入っていっちゃうんですね。
というか彼がほんとに伝えたいことを
話そうと思うとやっぱり盤面になるんです。
いいかげんな話ばかりする
将棋指しってたくさんいて、
そういう場合はまぁ将棋じゃなくて
人生の話になるんだけど……。
すぐに「人生、人生」といいだす将棋指しと、
将棋の技術や理論の話しかしない羽生みたいな人と、
どちらがほんとの人生なのかというと、
やっぱり、羽生なんですよね。
人生、人生といいだす人は、
人生という架空のものをしゃべっているんですよね。
羽生は自分がいちばんのめりこんでいるものを
しゃべるだけですが、将棋なら将棋、
小説なら小説しかしゃべっていないほうが
むしろ人生に近いんじゃないかなぁ。
人生とか世界とかって、そんなものは
きっとやっぱり実体がないものなんです。
だからぼくなら何もかもを
小説について考えるように考えるし、
なんでもかんでも小説と照らしあわせたり、
小説を経由したり、
小説にひきずりこんだりするほうが
人生に近いんじゃないかなぁと思います。
「この小説のテーマは?」とか
「この小説には現代社会のなんとかかんとか……」
なんて読み方がよくされるけど、
小説家なんて戦争中はみんな、
翼賛文学会に入っちゃうような人たちなんだよ。
だから小説家の意見自体は
ほんとはみんなもうどうしようもない(笑)。
だからテーマとか社会性とか意味なんてものは、
どうでもいいんです。
他の分野でもそうですよね。
会社に呼ばれてすぐに講演会で人生を語る人って、
小説家でも野球選手でも
たいていアタマの中がからっぽじゃない?
元監督が語る組織論なんかよりも
打撃理論に終始するイチローの話のほうが
ぜんぜん豊かだし、
ほんとの意味でのまじめにとりくむ姿勢に
勇気づけられたりしますよね。
人生論によりかからない細かい打撃の理論のほうが、
むしろ実際は人生にとってもためになるんです。
素人がきいても意味ないはずなのに
なんでそれがためになるのかが、
いつも不思議なんですけどね。
小説を書くということもたぶん
「イチローがしゃべるようなこと」
だけをやるものなんだと思うんです。
だから小説では何を書くかより
「どれだけ多くをつめこめるか」
「どれだけていねいに書けるか」が問われているし、
意見をいうというのとはちがう次元で
「何をいうか」が問われているんだと思うんです。
人がものを見る時には焦点をあわせるわけだけど、
焦点だけを見ているわけではありませんよね。
その人に焦点以外の
なにが見えているかを書くことで、
視野のクセや焦点が見えるというか、
せわしない動きをする人なのかどうか、
というのが盛りこまれてくると思うんです。
小説家の書く文章には、
小説家の経験と身体性が
埋めこまれているはずのもので、
その「身体性」という土台が
しっかりしていることが
いちばん大事だと思うんです。
土台がしっかりしていれば、
書くことはもうすこし自然に出てきますから。
明日に続きます。
感想を送る 友達に知らせる ウインドウを閉じる 2005-06-17 
Photo : Yasuo Yamaguchi All rights reserved by Hobo Nikkan Itoi Shinbun 2005