|
|
|
質問:
保坂さんは、
「小説をおもしろく読む方法」は、
どんなようなものだと思いますか?
評論家のように読んだらまずい、
というところから、
さらにうかがいたいんですけど。
|
|
|
|
小説って、往々にして
「ワク」で考えられがちなんですよね。
「はじめとおわりというワクのなかに
人物がいてそこで何かが起きている」
と思われがちだけど、
ほんとはワクなんてないまま
小説の外に出ても力を持つというか、
読みおわった時に
その小説特有の語り口が
読者に感染しているような小説のほうが
強いと思うんですね。
しばらくそのクセから
抜けなくなっちゃうという。 |
|
|
|
クセって、いい悪いの区別はなくて、
ただただ、うつるものなんですよね。
クセですから
いいところは悪いところでもあるんです。
だから、評論家がワクでまとめて
語れる表現なんて、きっと、おもしろくも
なんともないのではないでしょうか。
ぼくが、最新刊の『小説の自由』で
くりかえしいっているのが、この、
「評論家のように読んだらまずい」
ということなんですけど。 |
|
|
|
評論してしまうとそこで
小説は別のものになってしまいます。
人は音楽や美術に関しては
言葉ですべて再現できるとは
最初から思わないから、音楽評論や美術評論には
「すべては再現して伝えられない」
という前提があって、それが救いなんです。 |
|
|
|
だけど、小説の評論には、そういう前提がなくて、
小説は言葉でできているから
評論の言葉で再現できると思っている。
でもほんとは小説は言葉を使って
言葉でないものを作っているんです。
雰囲気とか全体を作っているわけで、
その小説の中にある言葉でしかいえない世界を
作るものだから、
評論で再現することはできないんです。
|
|
|
|
トルストイの『戦争と平和』は長い小説だけど、
もしもあれをダイジェストで百ページぐらいに
まとめられたとしたら、
それは百ページでかまわないものなんです……
ところがまとまらないから
あの長さになってしまうわけですよね。
かいつまんで言えるなら
かいつまんだ姿でいいのであって、
かいつまめもしないし
他のかたちにはならないから
今の形をとっているというものが小説なんですね。
|
|
|
|
まとめてしまえばそれで済む、
という読みかたは、
小説の読みかたではありません。
じゃあ、小説ってどう読むのがいいのかというか、
小説家としてはどう読まれたいと思うかというと……
読みおわったらまた最初から読んでほしい。
それだけで充分なんです。
小説家は、ひとつの小説を書いているかぎりは
なにを書いたかの全体をいちおうおぼえてるんです。
ほんとに細かい点はわからないけど、
Aさんはこれとこれとこれをして、
Bさんはこれとこれとこれをして……
それがどんな順番で並んでいるというのは
ぜんぶ覚えているはずなんですね。
ストーリーとかテーマなんて大雑把すぎて(笑)
そんなの小説家にとっての小説では全然ないんです。 |
|
|
|
明日に続きます。 |
|
|