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質問:
「すらすらとは書けないことを
書こうと挑む」
という保坂さんの考えからすると、
すごくまっとうな意見だなと思います。
保坂さんが、新刊の『小説の自由』で
触れているアウグスティヌスの言葉も、
ほんとにすらすら読めないところが
ものすごくおもしろいですよね。 |
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「思うに、
わたしが語ろうと欲するのは、
主よ、わたしは、どこからここに──
この死んでいる生と言うべきか、
それとも生きている死と言うべきか──
来たかをしらない。
わたしは、それをしらないのである。
しかし、わたしの肉の父と母から
聞くところによると、
あなたのあわれみにみちた
なぐさめがわたしを支えられた。
あなたはわたしを、父から、母のうちに、
時間において造られたのである。
わたしがそれをわたし自身、
父と母から聞いたというのは、
わたし自身は記憶していないからである」
(『告白』第1巻・第6章より抜粋。
アウグスティヌス/服部英次郎訳) |
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自分の出生の話をするのに
「人からきいた話だが」って……
あたりまえじゃん!(笑)
この異様な緻密さが、
アウグスティヌスのテンポなんです。
なにしろぼくがいちばん好きなのが、
「神」をどう知れるかというところです。
こういう話になると、みんなだいたい
「わたしには見えた」だとか、
適当なことしかいわないんだけども、
アウグスティヌスの場合は、
神の言葉は耳できくのではなく、
ただ精神によってきかれうるというんです。 |
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神は物質ではないから
物質をとおして目で見えることもなくて、
空気という物質の振動をとおして
耳できくなんていうこともありえなくて、
夢のなかで神に会えるかといえば
夢のなかも基本的に覚醒時に知っている
物質によって成り立っているだけだから
そこで神に会うこともないという……
そういう緻密な考えかたを展開して、
結局アウグスティヌスは、
神を一度も見ていないんですよね。
ぎりぎりすごい近いところまでいったという
記述もあるんだけど、
決して「見た」とはいっていません。 |
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そこでもし「見た」といっちゃうと
一気に話が簡単になっちゃうんです。
見たことをただいえばよくなるからね。
だけど
「人間は神と出会うことはできないけど、
神がいることを信じなければならない」
という方向でアウグスティヌスが
考えていく過程は、ぼくにとっては
すごく小説と似ているんです。
小説もやっぱりわかりやすい単純なものを
ただつかむものではないですから。 |
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結論とか意見とか、
ぼくはそういうことを
小説を書くときには問題にしていません。
「小説のなかでこういう文章の書きかたや
こういう口調をつくりだせば、
なにかに接近するための
道具として機能するのではないか?」
そういうふうに、
すこし前進するための道具や
ちょっと展望を開くための道具として
ぼくは小説のことを考えているんです。
アウグスティヌスのいっていることも
きっとそういうふうにわからないものに
接近する過程だから、
ぼくは自分に近いなと感じて
読んでうれしくなるんだと思うんです。 |
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アウグスティヌスの書いたものは
宗教についての言葉ですし、
宗教というと日本では
色がつきすぎている言葉ですよね?
現生利益的な話とか死後のどうのこうのだとか、
非科学的現象としてしりぞけられやすいものです。
だけどアウグスティヌスのいう宗教は
「近づくことが不可能なものを、
どう考えればいいのだろうか」
というだけのことなんですよね。
ふつうの日本人が宗教といわれて
想像してしまうものとはちがうものなんです。
文学とかがちゃんとなかった時代と
場所にたまたま身近であった
「神」について考えた人が
アウグスティヌスであるだけで、
生きている時代がちがっていたら、
アウグスティヌスはきっと、
別の形式でものを考えていたんじゃないかなぁ。 |
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月曜日に続きます。 |
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