質問:
わかりにくいことを考えるための道筋を、
自分で考えてゆくのが芸術だという話は、
すごくおもしろいですね。
たくさんの人が小説家のことを
「言葉の達人」だとか、思っているようだけど、
小説はそういうものではないとぼくは思います。
言葉をうまく使うことが
小説を書くことだと思っている小説家も
たくさんいるんだけど、
そんな小説はおもしろくないんです。
「言葉に違和感を感じる能力を持つこと」が
小説のはじまりなのではないかと思います。
違和感を感じるというか
「クチではそういうけどほんとはわからない」
という言葉は多いですよね。
アウグスティヌスも、
くりかえし「神」については
「わからない」といっています。
誰も見たことがないくせに
「神」と呼ばれているものは、記号ですよね。
「死」というのも記号でしょう?
そういう記号が実体として
どういうものかを考えるのは、
ただ言葉を表面的に
ぼんやりきいたり使ったりするのとはちがう、
記号のなかを充実させる作業なんですよね。
「神」や「死」という言葉を
ただ誰かが使うように使うぶんには
なんにも考えたことにはならなくて、
その「神」や「死」という言葉が
どれだけのイメージを持っているか……
中味や、
中味に辿りつけないならその周辺を
充実させようとすると、これがむずかしくて、
もう、だいたいいきなり頓挫するじゃない?
そういうことのくりかえしが、
小説を書く作業なんだとぼくは思います。
「無限」も「永遠」も
簡単に人はいいますけど、
「神」や「死」とおなじように
人間には決して触れられないものなんです。
「宇宙が一五〇億年前にできた」
ということもよくよく考えてみたら
すごくたいへんなことなんだよね。
一五〇億年に比べたら
「たった二〇年」しか生きてきていなくても
人は自殺するほどつらい思いをするわけだし、
歯が痛くて我慢している時間とかだって
「たった一晩」でも、
ものすごく長く感じるわけです。
風邪をひいて三日ぐらい熱がひかないと
「もうずっと高熱がつづくんじゃないか?」
と心配するし……
そういうのが重なる先の「永遠」というのは、
一五〇億年を一億倍するよりも
長い長い時間なんだから、
もうわかるはずがないじゃないですか。
「待ちぼうけを食らって
三〇分寒いところで待たされた」
とか文句をいってるのが人間なのに、
永遠なんてわかるはずがないんです。
「神」も「死」も「永遠」も記号としては
いくらでもいえるんだけど、
その実体がどれだけたいへんなことか、
というのは言葉をいくらつなげてもわからない。
簡単に永遠なんてクチをきけなくなるというか、
いくつかの記号を見ただけでも
「実体」って、
まだわかっていないことだらけで、
それはさっき話した
「人生」とおんなじなんですよね。
人生人生とよく使われてる言葉だけど、
その内実は死や永遠がわかっていないように。
言葉はいえることしかいえないんだけど、
なかでもほんとにいえることだけを
積み重ねていって
どれだけいえないことに肉迫できるのか?
ぼくには、小説とは、
そういうことをやるものなんじゃないか、
という印象があるんですね。
言葉には、音楽のように使う側面も
絵画のように使う側面もあるから、
単純な記号の機能からふくらんでいく部分で
「言葉がなにかにほんとに触れた」
とほんのちょっとだけ感じられる瞬間を
小説で作ることができるんだとぼくは思うんです。
それが言葉の芸術としての機能なんです。
明日に続きます。
2005-06-29
Photo : Yasuo Yamaguchi All rights reserved by Hobo Nikkan Itoi Shinbun 2005