質問:
小説の言葉と科学の言葉の差について、
保坂さんの考えを、うかがえますか?
今は、基本的に
たくさんの人の考えのよりどころが
科学的な妥当性なんですよね。
科学的ではないいいかたをすると
すぐに神秘主義とか
オカルトと思われがちなんだけど、
科学的なものを逸脱する方法が
じつは芸術で……実証や検証や論理で
きっちりできあがっているものを
逸脱したものが、
ぜんぶオカルトだとしか
見えなくなってしまったとしたら、
それは芸術が終わる時代なんですよね、きっと。
ぼくは小説を考えるときに、
言葉をあまり言葉と考えないで
音楽や絵とおんなじものだ
というふうに考えています。
音楽をきいているときや
絵を見ているときの高揚感とか、
不意にいままでネガティブにしか
考えられなかった状況を
ポジティブにとらえなおせるように
なったりするとか……そうなるのは
「音楽や絵のなかに
 これだけ明るい主張があるから
 その明るさに感染して影響を受ける」
というわけではないですよね。

音楽や絵のなかに、もっと強靱な、
既成のものにおじぎしない姿勢が
堂々とあることこそが、
ポジティブな感覚をつくりだすんじゃないか、
とぼくは感じています。
主張なんか結局記号の連なりでしかなくて、
芸術は姿勢の方なんですよ。

テレビを見ているとほんとうにいろんな
「なぞなぞ」ばかりが放送されているけど、
そのほとんどが
ただ時間をつぶしていくだけのもので、
考えなければいけないことを
考えさせないようにするためのようなもの
ばかりじゃないかと感じます。
あとはワイドショーで染まっているわけです……
だから、
「ライブドアに報道が買われてはならない」
とかいわれる以前に、
もうテレビで報道なんて
ぜんぜんしていないじゃない
とぼくは思っていました。
ただ、「なぞなぞ」が好きということは、
みんなほんとのことをいうと
なにかを考えることは好きなんですよね。
なにを考えていいかがわからない
社会になってしまっているから、
「なぞなぞ」みたいなもので
考える代用をしているということでしょう。
それで手がかりとして
子供がネットでなにかを書いたり
小説を書いたりするのが
流行っちゃっていますけど……
ぼくは文章を書くことって
あんまりはやく
はじめないほうがいいと思うんです。
  明日に続きます。
 
感想を送る 友達に知らせる ウインドウを閉じる 2005-06-30
Photo : Yasuo Yamaguchi All rights reserved by Hobo Nikkan Itoi Shinbun 2005