質問:
「ふつうの人が
あまり見ないようにしている、
定年になるといきなり開けるような
とらえどころのない人生」
のとらえかたを、うかがえますか?
次はこの仕事、その次はあの仕事、
というふうにやっていたら
見えなくなるというか……。
「人生ほんとに
最後にはなにが残るのかなぁ?」
とか、みんなが考えないように
生きているものを考えることが小説家の使命で、
そこから仕事をはじめないといけないから、
つまり小説家の基礎は
定年後の生活だから、こちらの生活は
極力なにもしないものになるというか(笑)。
十八歳ぐらいの時なんて誰でも
「三〇過ぎまでなんて生きてねぇよ」
みたいなことを思っているわけじゃない?
死ぬこともただの記号だったはずなのに、
それが年を重ねてゆくと、
だんだんすこしずつ
内実に触れることになるんだよね。
ただ、
小説はいくつになっても書けるとか
考えがちなんだけど、
そうでもないと思うんです。
数学者はすごく若いうちに考えたことを
三〇歳や四〇歳で
しあげるぐらいの感じらしいし、
将棋指しは三〇代の後半にきたら
力は落ちるんですよね。
数学は骨組みだけみたいな思考法だし、
将棋は対局によって
五時間とか八時間の持ち時間があって、
最後はかならず時間との戦いになるから
体力勝負という面があって
そうなんだろうけど……たしかに
そういうものにくらべれば
小説はもうすこしは長くできると思います。
だけど、一行書いては
小石を水に投げるように波紋を広げる
反射神経みたいなものは必要なので、
それを考えるとやっぱり
五〇歳ぐらいが限界なんじゃないか、と。
ぼくは次の小説は書きたいなと思うんだけど、
次を書いたらそこから先は
どうしようかというと
ほんとに考えていないなぁ……。
書きださないと考えないほうだし、
前に書いた
『カンバセイション・ピース』
では、
書く前におぼろげに考えていたのは
「『死』を、なにに
どういうふうにつなげたらいいのか」
ということだけなんです。
そういうイメージとしては、
次の小説は「永遠」や「死」の内実が
わかっていないのとおなじように
「他人」という
わかっていないことを書きたいと思います。
明日に続きます。
2005-07-05
Photo : Yasuo Yamaguchi All rights reserved by Hobo Nikkan Itoi Shinbun 2005