質問:
「論理の言葉」でない
「現場の言葉」は、どう書くものですか?
このあいだ
「家は記憶するか」というエッセイを書きまして、
それはもうすぐ出る建築雑誌の
「家に記憶があるか」
という特集に向けて書いたものなんですけど、
建築の世界でも何かの行き詰まりがあるから
「家に記憶があるか」という
ぼくが小説を書きながら考えているようなことと
同じことがそこで考えられているわけですよね。
主観と客観という分け方がおかしいとか
「個人が主体を持っている」
とされているけど
その捉え方を乗り越えていくには
どうしたらいいかとか……
「家に記憶があるか」という問いも、
さまざまな芸術が試みている
そういう流れの中にある動きだと思うんです。
ただ、芸術の中でも〈言葉〉というものは
特に「自我」や「主体」を守るように
働いてきたいちばん頑固な部分でもあるので、
けっこうむずかしいんですけどね。

たとえば、小説の中で
「自我」や「主体」を乗り越えるには
どうしたらいいのかというと……
いきなり「自我」や「主体」そのものを
どうこうしようと考えても
うまくいかないと考えるようになりました。
家のことを考えたり
音楽のことを考えたり
現代美術のことを考えたりという
折に触れての考えの集積が、次第に
「自我」や「主体」というゴリゴリの
論理的な考えから離れていくのではないか、と。

いちいち言うのもめんどうだから
「論理的な使用法の言葉」を
「狭い言葉」として
「論理的な使用法を越える現場の言葉」を
「本来の言葉」としますけど、
ふつうの生活で使う言葉は
じつは「狭い言葉」ですよね。
だから「机の上にコップがある」も
「この土地にはいい〈気〉があるね」も
一見ひとつのものを指すという
同じ言葉の使用法になってしまう。
でもほんとは「いい〈気〉があるね」の方は、
あるとかないよりも
広い意味のことを言おうとしていると思うんです。
空間構成でさえも「ある」と
ひとつの物質のように「点」として言わないと
ピンとこないというのが
人間の言葉の持つ習慣なわけで、
空間を指すことは日常生活の言葉では
とてもむずかしいですね。

建築のことをちゃんと考えている人なら
空間を見る訓練を積んでいるから
「ある」「ない」ではなく
「建坪に対する部屋の仕切り方」や
「高さと奥行きのバランス」を
考えることができるようにはなっているでしょう。
それでも建築の専門家が素人に説明する時には
「点」や「物」を見るように
伝えてしまいがちだと思うんです。
言葉は「点」で説明するほうが便利ですから。
 
  明日に続きます。
 
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2005-07-11

Photo : Yasuo Yamaguchi All rights reserved by Hobo Nikkan Itoi Shinbun 2005