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谷川さんの詩を読んでは、いつも
「こんな心境をこんな言葉で言いあらわすとは!」と
愕然としています。
例えば、今回の書き下ろしの
「祖母」という詩を聴くと、
実際のおばあさんの姿を
ありありと思いうかべてしまうのですが。 |
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あの詩は、今回のCDのために
書き下ろしたんだけど、
賢作の要望が
「廊下のひだまりで、ひなたぼっこしているような
おばあちゃんのイメージが欲しいなあ」
ということだったので、
日本人の最大公約数的な
おばあちゃんのイメージなのかな、
それに近いものを書こうと思いました。
ま、できあがってみたら
ちょっとちがうものになったんだけどね。 |
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草をなでるシーンなどは、
実際に谷川さんがああいう行動を
ごらんになったのではないかとさえ思います。 |
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いや、あれはすべてフィクションです。
自分自身の「年寄り」に対するイメージっていうのは
昔とはずいぶん変わってきちゃってる
もんなんですよ。
詩を書くときは、いま触れることのできる
お年寄りのイメージというものや、
具体的な自分のおばあちゃん像みたいなものが
もとにはあるんでしょうけれども、
そこからイメージが展開しちゃうんですよね、
詩って。
つまり、おばあちゃんについて詩を書こうと思うと
まず最初はやっぱり、我々に共通な
型通りのおばあちゃん像が出てきちゃうんですよ。
それだと、なんかもう、
決まり文句的なおばあちゃんになっちゃうじゃない?
それを壊そうとする方向に動くことで、
新しいイメージが出てくるんです。
その段階で、なんだかぜんぜん思いがけない、
おばあちゃんが丘に登って草なでてるイメージが
出てきちゃうと、
あ、これはちょっといいんじゃないの、
と思って使う。
ぽこっと出てきたイメージでも、逆に
検討して「これはよくない」ってことになれば
使わないこともあります。 |
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それは、子どもからみた視点についても
同じことですか? |
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子どもについては、
「自分の子ども時代を思い出して」詩を書く、
っていうこともあるんですけど、
いま、自分のなかに「いる」子どもが
いちばん問題だとぼくは思ってるんです。
それを、どうやって表に引き出してくるか、
言葉にするか、っていうこと、
これが大事なんだね。
ぼくは思うんだけど、
年齢ってすごく重層的になっているわけ。
よく年輪にたとえて言うんだけど、
自分が72歳になっても、
なかに3歳の自分がいるなあってことを
ときどき感じるんです。
特に不安だったり怖かったりするときにね。
年輪のように、重層的に年齢は重なる。
だから、3歳の自分もいつもそこに「いる」。
そういうことを大人になると
ごまかして生きているわけだけど
それを、もしはっきり見つめられれば、
その子の気持ちを再現できるっていうふうに
思ってるんです。 |
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年輪のようにある年齢のなかから
この3歳の子を引っ張ったり
見つめたりするんですね。 |
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そう。
その子を引っ張り出してくる、っていうのは
大人にとっては
けっこう怖いことなんです。
でも、大人の会社員なんかが
飲み屋に行って女の人をさわったりなんかするのは、
この(年輪の3歳あたりにいる)男の子が
「お母さんが恋しい」って言ってるってことなんだと
思うんですよ。
ほら、男ってマザコンが多数派だから
大きい胸が人気があることに対して
みんな誰も何も言わないでしょ。
もしマザコンが少数派だったら
コテンパンに叩かれんじゃないの(笑)?
母系社会だからね、日本は。
それはすごくいいとこなんですけどね。
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