フランコさんのイタリア通信。 |
アルド・モンターノの恋。 フェンシングといえば、イタリアでは長い伝統を持つ スポーツのひとつだったはずですが、いまや、 4年に1度のオリンピックがある時に、 そういえばフェンシングというのもあったと、 人びとが思い出すていどになってしまいました。 今イタリアで話題になっている ひとりのアスリートがいます。 アテネでのオリンピック以前は、 まったく無名だった男。 アルド・モンターノ──フェンシングの選手です。
話題の主人公・アルド・モンターノは、 2004年8月14日に、フェンシングのなかでも もっとも伝統的なサーベル(エペ)・フェンシングで 金メダルを獲りました。 彼は表彰台に上がり、メダルに口付けし、 イタリア国歌が流れた時には、 彼が熱狂的に応援しているサッカー・チームの リヴォルノのシャツを、 ひらひらと振りまわしました。 こうしてマスメディアに登場した このフェンシングの金メダリストは、 若くて、その上にハンサムだったので、 イタリアの若い女性たちは、 すぐさま彼に夢中になりました。 彼は最初は、こうした恋のチャンスを 本気にしていなかったようです。 スポーツのチャンピオンに群がる美女たちは、 スパゲッティのトマトみたいに、 お約束の味付けでしかない、ってね。 でも純情な青年のアルド・モンターノは、 そのなかのひとりの、 ある大変な美女に恋をしてしまいました。 その女性は、これまたスポーツのチャンピオンの、 あるサッカー選手と別れたばかりでした。 最初はなにも本気にしていなかったアルドでしたが、 結局のところ、いちばん美しいトマトを 選んだという次第です。 アルド・モンターノが恋におちたお相手は、 2年にわたってフランチェスコ・ココの恋人だった マヌエーラ・アルクーリでした。
ココはインテルのディフェンダーで、 日韓共催W杯にはアズーリの一員として 日本でもプレイした、あのココです。 ココとマヌエーラの恋物語は、 恋やサッカー選手や王子や王女についての話をのせる スキャンダル雑誌の誌面をにぎわせたものでした。 やはりこのふたりは結婚するだろうと思われた、 まさにその時期に、彼らは別れてしまったのです。 フランチェスコ・ココは淋しさを忘れるために 20才のモデルとつき合い始めました。 そしてマヌエーラ・アルクーリは、 ある夜のミラノで行われた授賞式で、 アルド・モンターノと知り合いました。 マヌエーラと目が会っただけで、 アルド・モンターノは恋におちたといいます。 この恋はすぐに表ざたになりました。 アルドが 「マヌエーラは世界一の美女だ、 だれよりも愛情にあふれている、 彼女がぼくの子どもたちの ママになってくれたらうれしい」 と言う一方で、マヌエーラも、 これと全く同じ言葉で答えています 「アルドは信じられないほど優しい紳士で、 私の子どもたちのパパになってほしい」と。 アテネのオリンピックで金メダルをとった直後、 アルド・モンターノはイタリア大統領の アゼリオ・チャンピの賞賛を受けました。 チャンピは彼と同じくリヴォルノ出身で、 やはりサッカー・チームのリヴォルノの ティフォーゾでもあります。 アルド・モンターノとマヌエーラ・アルクーリは、 あるテレビ番組で彼らの結婚を発表し、 アゼリオ・チャンピを招待すると言いました。 チャンピ大統領が本当にこの招待に応じるかどうか、 まだ返事はしていないようですが。
今やイタリアではスポーツと芸能界は、 実質的にはごちゃまぜみたいなもので、 サッカー選手とモデル、 自転車競技のチャンピオンとテレビ・タレント、 オリンピックの金メダリストと女優、などなど、 こういう組み合わせが当たり前になりました。 彼らは夕食後にディスコに行くのでも、 パパラッチたちがいないか周りを見まわし、 用心しなければなりません。 スポーツ選手もスターも、 今や同じ次元で扱われるのですから。 楽しむためにスポーツを始めたとしても、つぎには、 お金を稼ぐためにスポーツをすることになるのです。 そして人はもっと多くを望みはじめます。 もっと有名になるためには勝たなくてはなりません。 ひとたび有名になれば、 より豪華な恋を求めるようになります。 イタリアの若い女性たちにとって、 要するに幸せは、ボールや自転車や、 モンターノの場合のように サーベルとつながっていたりするのです。 スポーツを始める若者たちにとって、 もっとも大きなゴールは「勝利」でしょう。 その先の最終的なゴールは、 映画の女優やモデルや テレビタレントとの恋なのでしょうか。 チャンピオンと呼ばれるようになってしまえば、 彼らはもう試合で勝たなくても良いのです。 登場するだけで、 恋の勝利はもう手にしたも同然というわけです。
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2005-03-07-MON
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