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高畑勲さんは、
物語アニメーション作品だけではなく、
実写のドキュメンタリー映画も作っています。
アニメーションの現場のルーツを探った後には、
日本人の絵の原点の「絵巻物」についての著作、
『十二世紀のアニメーション』(徳間書店)で
日本人についての考察を発表するなどといった、
前の仕事が次の仕事につながるような進み方を、
アニメの世界に入ってから、
三〇年以上続けているのです。
去年、「ほぼ日」でも映画の特集をした
『キリクと魔女』の日本語版の翻訳と
声の演出を担当する時も、高畑さんは、
「そもそも、十年間ほど抱えていたテーマが、
この映画と合うからやったことでした」
と言ってました。
仕事を、次の仕事につなげていくものは
何なのでしょうか?
仕事で、先に進めないような絶望感を感じたときに、
それを打開するきっかけになるものは、
何なのでしょうか?
「それは、非常にささいなことですが、
これさえあれば、
仕事をやっていけるということがある」
と、高畑さんは自分の経験から、
静かに話してくれました。
若い人や悩む人の、背中を押す仕事論を、
おとどけします。 |
ほぼ日 |
「権限のある仕事が任されない
雑用係になった時には、その立場に腐って、
『この組織は、
自分の才能を生かしてくれない!』
などと不満を言う前に、
ずいぶんたくさん、やるべきことがある。
雑用係は、勉強する気がありさえすれば、
いくらでも周囲から学ぶことができるから、
そういう立場を、利用しない手はない」
という高畑さんの実感は、
なるほど、と思って聞いていました。
さきほど、さらに続けて
「今の時代は、情報がありすぎるから、
なにかをつかみとることがむずかしく見える」
ということもおっしゃっていましたが、
その点について、
詳しくうかがってもよろしいでしょうか。
高畑さんの、新人の頃から仕事をやる中での、
「なにかをつかみとる過程」
とは、どういうものだったのでしょうか?
もしかしたら、その過程が、今の人にとっての
「閉塞感を打開する方法」
にも、つながるかもしれないと思ったので、
つい、うかがいたくなりまして……。 |
高畑 |
今、アニメーションの世界を
志望している若い人たちは、
きっと、入口に入る前から
圧倒されてしまっているように思います。
アニメーションの傑作が多すぎて、
それを見るだけで時間もかかるし、
厳しいところに
立っていると感じているのでしょう。
宮崎アニメを見て
「いったい、あそこに近づけるのか?」
と考えはじめると、なんだか
大きな山脈のようにそびえて見えて、
足がすくんでしまうのではないでしょうか。
ぼくがアニメーションの世界に入った頃には、
少なくとも、
そういうことはありませんでした。
むしろ失礼なことに
「これなら、やっていけるのではないか?」
とさえ思いました。
当時は、アニメーションばかりを見て
この道に進むというほど
沢山作品があったわけじゃなかったし、
むしろ、映画や芝居や、
芝居でも新劇から歌舞伎、能狂言まで、
他のジャンルから
いろいろなものを吸収したことで
学ぶことが大きかったんです。
就職が内定して、入社を待っている頃に、
これから働く東映動画が作った
『白蛇伝』という映画を見たのですが、
そのとき、すごくホッとしました。
もちろん入社前で、
すごく緊張をしていたんです。
何も知らないし
「自分は、アニメーションの
仕事なんかしていけるだろうか?」
という不安があるわけでしょう。
ところが、
『白蛇伝』を見たときの感想は、
素人であるがゆえに
「『やぶにらみの暴君』に比べると、
たいしたことがないじゃないか」
と……これは非常に僭越な感想なのですが、
ぼくは実際にそう思ったわけです。
なぜホッとしたのかというと、
そこにはどうやら
「改善しなければいけないこと」
がたくさんあるということが
わかったからでした。
改善すべきところがあるのならば、
その中で自分も
何かをしていける可能性が
あるのではないかと思って、
それでホッとして会社に入ったのです。
ところが会社に入ってみると、
その素人としての感想が、
すっかり変わってしまうんです。
そこが大切なところなんですけど……
いろいろと仕事を知りはじめて、
ようやく、その『白蛇伝』をやることが
どれだけ大変だったのか、
どれほどの労力と時間を
積み重ねて作ったものだったのかを、
はじめて理解することができたんです。
入社前のぼくは、
あの作品を作ることが
どれほど大変であるかを知らないまま、
できあがったものだけを見て、
他のすごい映画や絵画と
比べてしまっていたわけでしょう。
ぼくは、ファンとしては
古今の絵画を非常に好きで、
けっこうちゃんと
絵を見ているほうだったんです。
アニメーションを
描いている側の人というのは、
かならずしも他人の絵を見る必要がないので、
古今の絵に親しんでいるわけではない人が
けっこういますけれど、
ぼくは高校あたりから絵を見はじめていて……
すると、古今の名作に比べれば、
アニメーションには、
たいしたものではなく思えてしまうような絵が、
いくらでもあるわけです。
しかも、素人は
「立派そうに見えているだけでは
ないものこそ、
人にアピールする度合いが強いときもある」
というような
人の心の動きにも気づいていないわけです。
古今東西の
立派なものばかりを見ていただけだから。
ところが、実際に会社に入ってみると
「限られた条件で、
どれだけおもしろさを出せるかどうか」
という問題に直面するのです。
ただ、ぼくは、
「大きな夢を描いて、
それを達することができなかったら、
もういっぺんにガックリきてやる気を失う」
とか、そういうタイプではないんです。
むしろ、
一歩でも前進するとよろこべるんですね。
作画枚数をいかに減らすかという
制限があったとしても、
制限は制限として受けとめて
「それでも、できるだけ
キャラクターを動かしたいのだから、
がんばってみよう」だとか、
そういった職人的であるがゆえの
着実さはあったのだと思います。
なにしろ戦後の長編はまだできたての
『白蛇伝』だけだったわけで、
そうそうたる名作群に臆するという
体験もなかったし、
身近な先輩のやっている作品を見ては
「ここはこんなことを考えたら、
もう一歩おもしろいことができるのになぁ」
とか、細かいところなら
「前進できるであろう」
という確信を持てるというか、
はっきりつかめるものがあるわけです。
そして、身近な他人との比較でも
前進できると同時に、
自分が演出になったあとには、
自分との比較ができるようになるわけです。
そうなると、むしろ他人と比べるよりは、
自分で「これをやってよかった……」と
感じられるかどうかが、確かに前進しているという
基準になっていったような気がします。
実はこの「自分との比較」というのは、
子どもの頃から
非常に大事なことなのではないか、
と思っています。
他人と比較をすれば、
どの時点でも、上はキリがないですよね。
ところが、自分が一歩前進できたかどうか……
結局は、なにかをやるときには、
これが大事なんです。
これさえあれば、ほんとうは
生きていけるのではないかとさえ思うんです。
「向上した」という実感と言いますか。
前進と言っても、
ひとつずつはとても些細なことです。
もともと、行き詰まると言っても
ほんとうに次元の低い具体的なことなんですよ。
「今日までにやらなければならない絵コンテが、
徹夜して朝になってもまだできていない。
こんな状態で、仕事を続けていけるのだろうか?」
「もう、課長のところに行って、
すいません、もうできませんので、
と言うしかないなぁ」
「眠いなあ、もう寝ちゃうしかないか……。
こういう仕事は、やっぱり
才能のあるやつがやれば
いいことではないだろうか?」
「才能のないやつが、こんな大変な気分に
陥ってまでやるべき仕事なのかなぁ……」
悩みの次元も低いし、それぞれ、
非常に具体的なものなのだけども、
それだけに、そのときは
もうほんとうにつらい思いでいるんですね。
主に、「自分には力がない」ということで
苦しむわけですが、ところが、
なんとか切り抜けることができたら
「まぁ、なんとか、やっていけるかもなぁ」
と思うという、非常に
曖昧な立ち直りかたをするんですね。
一歩でも前進するというと
立派そうに聞こえるけれど、
その進み方も、非常に次元の低い、
いいかげんなものなんです。
だけど、そういう前進の実感こそが、
大事なことだったんです。
このことについては、ストックもなしに
毎週一本ずつテレビシリーズを作っていたときも、
宮さんなんかも含めて、そうでした。
「こんなスケジュールのなかで、
家にも帰らず、
できあがったものをチェックする間もなく
放映されるという状況なのに、
それにしては精一杯やったじゃないか。
結果は、いろいろ問題点はあるにしても、
よくやったじゃないの」
こういう考えかたは、
仕事を次へ続けていける力になるんです。
要するに、自分たちのことを、
「完全無欠な立場」からは見ない。
むろん、悪条件のなかで
全力投球したうえでのことではありますが、
「こんな条件にしては、
これだけできたら、いいんじゃないの?」
というぐらいの、かなりいいかげんなことが、
次へのエネルギーになったんです。
もともと、ぼくはそういう性格ですし、
たまたま、妻も、もともと
そうやっていいほうを見る性格なので、
それは夫婦そろって生きやすいですよね。
やっぱり、生きることについては、
悪いほうばかり見ていたら、
つらいだろうなぁと思います。
一歩でも二歩でも
前進したことがよろこべるんです。
発見することで、なんとかやっていけるんです。
もちろん、大きな意味での自信なんか
なにもないし、そういう点では、ぼくはいつでも
「もう、この仕事を
やめなくちゃならないのではないか」
というようなことを思っていました。
何回でも
「こんなに力がないのだったら、
もう足を洗ったほうがいいのではないか」
と思うことは思うのですが、それにも関わらず、
細かい前進があることによって、
なぜか、やっていけそうな気がするんですよね。 |
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(明日に、つづきます) |
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