もってけドロボー! 斉藤由多加の「頭のなか」。 |
第三回 ルール さて、今回はすこし具体的な話をすることにしましょう。 ゲームでもっとも大切な要素である 「ルール」についてです。 ルールを知らないで観戦しているスポーツほど、 つまらないものはありません。 観客を沸かしているスポーツは ルールが何十万人という人たちに 共有されているということになります。 このルールを誰もが知っているからこそ、 たった一本のバントに大歓声がわき上がり、 監督の采配に感動することができます。 ルールというのは枠組みです。 参加者が共有する枠組みをつくるという意味で、 ゲームデザイナーの仕事は、道路を敷くようなものです。 ここにひとつの野原があります。 ここには道路も標識それを指し示す表示もありません。 道路や標識がないのだから、タテ、ヨコ、ナナメ、 車は自由に疾走することができます。 どんなに危険な運転をしても 違反で捕まることはありません。 しかし、秩序がないから、 車の台数が増えるとその危険性が増え、 十台をすぎるくらいには、危険で危険で、 誰もが、車を自由に走らせることができなくなってきます。 そこで、たとえば、下のように 縦横に6本の道路を敷きます。 線に沿って車を走らせなさい、という枠組ができます。 一部の道路は幹線に、また一部は一方通行としました。 するとここの住人たちは、 道路に沿って土地に名前をつけ始めました。 住所の誕生です。 家を建てる人も出てきました。 野原だったこの土地には、 道路を中心とする秩序がおのずとうまれてきたのです。 やがて──街がうまれます。 上も下もない曖昧としていた野原は、 道路の登場で場所の定義が可能になったわけです。 交通の便のよい土地と悪い土地、 うるさい土地、静かな土地、 おのずと土地に価値の違いが生まれ始めることでしょう。 やがて車の往来が多い場所は商業地として、 すくなくて静かな土地は住宅地として 発展をさせようということになったようです。 商業地には道路沿いに駐車場がつくられました。 道の敷き方次第で、無秩序だった野原に意味がうまれ、 その秩序に則って、人々の生活がはじまります。 ルールというのは 曖昧模糊とした対象を定義してやることなのです。 ただし、重要なことは、この道路が有限数であること。 それが枠組みをする際の特徴といえます。 世の中にある事象を、 「有限数の枠組みで切り取る」。 これが、ゲームプランナーの技です。 あなたの考えたゲームを たくさんの人にを知ってもらうには、 このルールが複雑すぎてはなりません。 実際に存在するものは、どれも複雑です。 けれども正確にしようとするがあまり こまかい枠組みを作りすぎると、 ルールが複雑なゲームとなってしまいます。
かつて「タワー」というゲームを手がけました。 その話をします。 この「タワー」というのは高層ビルを どんどんとたててゆくシミュレーションゲームです。 プレイのポイントとなるのは エレベーターの待ち時間です。 ビルが高層になり エレベーターが広範囲をカバーすることになると、 利用者が増えてエレベーター待ち時間が長くなります。 一定時間以上エレベーターを待たさせると、 利用者たちはストレスを感じ、 このビルを利用しなくなるというゲームです。 そうすると収入が減りますので ビル拡張ができなくなってくる、というものです。 このゲームがヒットすると新聞などで こんな褒め言葉が登場するようになりました。 「この「タワー」には 高層建築のノウハウがすべて詰め込まれている」 と。 しかし、制作側にしてみると これはまったく正しい表現ではありません。 高層ビルというのは、 実に複雑な仕組みで運用されていて、 たとえプロといえども それらを把握することは困難です。 「タワー」では、この複雑模糊としたテーマを 「移動ストレス」という ひとつの軸だけで切り取りました。 本来はいっていなければならない「構造計算」、 「空調」、「給排水設備」、「電力資源」、 などといった要素はばっさりと捨ててあります。 すべてはエレベーターの待ち時間だけで 高層ビルを表現するためです。 つまりそれによってルールを明確にするためです。 その結果何かがおきたかというと、 不思議なことなのですが、 さきほどの記事に表現されたように シミュレーションのリアリティーが増したのです。 ここで学んだ事は、 枠組みは複雑であればよいということではなく、 理解される、ということが最優先であることです。 このことを企画者は常に念頭におかなければなりません。 ゲームのリアリティーというのは (前回のべたとおり)プレイヤーの脳裏にあるものです。 現実を模倣せんとして複雑さを増しすぎる事と 往々にして逆の結果をまねきがちです。 この「タワー」のケースでいえば、 一つの軸で高層ビルという複雑なものを切り取ると、 格段にわかりやすくなりました。 その結果、普段は建築などに 知識や興味のない人々たちも こぞってこの高層ビル建設ゲームに チャレンジしたのです。 コンピューターゲームというのは、 途中でルールを変更したり、 難易度をあげたりすることができるという点で、 トランプやスポーツよりも 企画者が強い立場にあるのが特徴です。 ですのでともすると企画者は、 企画に困窮すると状況に応じてルールを変更したり、 強引にイベントにもっていったりしがちです。 ですがルールというのは 途中途中で変わってしまってはならないものです。 あまりころころと変わると訳が分からなくなって プレイヤーは脱落してしまうことになります。 これは現実の組織などでも共通していることです。 ルールが終始一貫していれば、 メンバーはよりポジティブに 自分の選択をシミュレートするようになります。 ころころと変わる規則の元に組織は育ちません。
ゲームは推理小説に似ています。 推理小説というのは 作者と読者との間で交わされる ひとつの合意の上に成立している手法です。 手がかりが本編中のあちこちに隠されていて、 読者はそれらをもとに真犯人を推理してゆける、 というのがそれです。 それまでの調査結果をもとに 真犯人を明かす最後の場面で、 作家がこのルールを守らないと、 読者はついてこなくなります。 たとえば密室殺人の容疑者を集めて名探偵ポアロが 「犯人は、宇宙人だった」とか 「心霊現象だった」なんて話をはじめるのが それにあたります。 すでに本編中に提示されている手かがりを組み合わせて 謎解きをするからはじめて読者は 「なるほど」と納得しますが、 それを守らずに新キャラや未知の秘密兵器を 突如として登場させて決着させようとすると、 読者は「聞いてないよ」ということになる。 実は物語にも小説にもルールはあるのです。
こと、ゲームで物語性を表現しようとすると、 たったひとつのルールで貫き通す事は 困難なことも事実です。 ですから、展開上で、企画者は 「新ルール」を登場させます。 新アイテムや新キャラがそれに該当します。 注意しなければならない事は、この新アイテムが、 プレイヤーがこれまで積み上げてきた ゲーム性を損なわないように、 ごく自然に導入されることです。 任天堂社によるゲームを見ていていつも思うこと、 それはルールの学習に極めて配慮をしている点です。 たとえばそれは、新アイテムや敵キャラに現れています。 それらのほとんどは、 かつて登場したアイテムの進化型として登場するのです。 たとえばゼルダの伝説。 敵キャラはマップが進むごとに強くなりますが、 このタイトルでは、新キャラとして登場するかわりに、 A→A'→A"といった形で進化するのです。 これによってそれまでプレイヤーが養ってきた 文法を無駄にせずに戦闘がバージョンアップします。 ルール変更を最小限にとどめることで プレイヤーがそれまで培ってきた 上達感を大切にしているといえます。
よいゲームというのは、 プレイヤーがルールに沿って 自由に行き来できるものです。 そこに「やらされ感」はない。 よいゲームというのは ルールが明確かつシンプルであるが故、 水や空気のように意識されなくなります。 ことシミュレーションなどでは、 プレイヤーはあたかも自分の意思のまま 自由に行動しているかのように見えます。 しかし一方で、プレイヤーが自由であればあるほど、 企画者の意思は不在のように見えます。 ゲームの企画者は自分の意思やメッセージを どのように表現しているのでしょうか。 次回は、企画者の意思表現について お話しする事にします。 |
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2004-07-29-THU
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