最終回 どうもありがとうございました。
この原稿が、「ほぼ日」での僕の最後の原稿になります。
まずはこのページを読んでくださっている読者の方に
お礼をいわせていただくとともに、
すこし長文になってしまうことをお許しいただき、
筆をすすめさせていただこうかと思っております。
|
ゲーム |
コンピューターってなんだろう?
ゲームってなんだろう?
そんなことを考えながら、
僕とコンピューターの付き合いは20年を、
そしてゲーム制作の仕事期間は15年を超えました。
そのうちの10年近くの活動の一片を、
拙いながらこの「ほぼ日」で紹介してきたつもりです。
つもりではあるのですが、
ゲームというのは開発にずいぶんと長い期間、
そしてコストがかかるものです。
なので発売の目処が立つまでは秘密主義が徹底されます。
製作途中で悩んだり、困ったり、
発見したことをリアルタイムに書きたいのだけれど、
それが許されない。
ここでリアルタイムに紹介できることといえば、
いつも匂わせぶりなことだったり、
すこし過去形の話だったりしました。
書いていて僕も歯がゆかったけれど、
読者の皆さんにも申し訳ない気持ちが常にありました。
この歯がゆさと、
やけに長期間という特徴をがんばっているうちに、
こんなことを考えるようになったのです。
「僕はなんでゲームなんかつくっているんだろう」と。
|
重さがないものを与えるとは? |
エンターテイメントというのは派手なぶん、
幻想的で、ともすると羨望の対象のような
存在に見られがちです。
ですが、実は、日々の空腹を満たすわけでもなければ、
枯れ行く地球資源を補う行為でもありません。
だから僕たちエンターテイメント業界の人間は、
日々手を汚して米を作ったり、
資源を作り出している人々に
“喰わせてもらっている”ような存在です。
僕らは貴重な資源を消費するだけの存在なのですから。
じゃ、そんな人間ができることはなにか、というと、
日々の糧を生産している人たちの心を
元気にすることだけです。
人の心というのは、元気になるのに、物質は不要です。
そして心が元気になれば、生産性もあがる、
これが人間です。
CD-ROMは、空っぽのものも、新作ゲームが入ったものも、
つまらないゲームがはいったものも、
1mgも重さは変わらない。
物質的にはまったく等価です。
記録されたデータのところどころの
パターンが違うだけなのです。
このパターンの組み合わせは有限ですが、
つまり740MBという組み合わせの中に、
モナリザの微笑からシーマンの顔まで、
すべての組み合わせが含まれているわけです。
だから、僕たちは「作っている」と
表現としてはいますけれど、
実は「選んでいる」だけなのです。
もっというと、視聴者の心の中のトリガーを
ちょんと跳ね上げているだけで、
何か物質的なものを与えていることは出来ない。
もしそこに「感動」が生まれたとしても、
それはもともと人の心にすでにあったものなのです。
そのパターンを変えているに過ぎない。
情報というのはそういうものです。
「重さがないものを作る」、
という表現も言い方をかえると、
相手がすでにもっているものに気付かせる、
という行為にほかなりません。
その発見のための「プレゼンテーションの道具」が
ゲームだったり映画だったり、
つまり僕たちエンターテイメント業界と
いうことがいえます。
僕たちは、そのプレゼンテーションの道具を通して、
「元気になった」、といわれるための活動に、
ちょっとの対価をもらって、
それを集めて次の元気のもとを考える‥‥、
それが僕らの仕事、というわけです。
だから生産活動に汗をかいている人を
元気にすることを忘れてしまうと、
この仕事は成り立たないことになる。
|
ゲームが出現したぞ |
さて、そんな中で1970年代の後半に
パソコンという機械が出現してきました。
続いて80年代にはそれがゲーム機という名前で
販売されるようになりました、
かなり大雑把な言い方ですけれど‥‥。
さてこの機械の上で、先述した、
生産活動に従事する人たちを
元気にさせることができるだろうか?
それが、いま僕たちにゲーム業界に
課されている課題であり使命です。
ハードとソフトとネット‥‥
技術革新とともにITコストは
廉価になっているとはいうものの、
全体では、その規模がすこしづつ膨れてきています。
これは、ユーザーの必要機器類の価格
という意味もありますが、
製作するためのコストという意味もあります。
そのコストがかかるということは、
人が元気になるための負担が
増えることになりますからよくないことといえます。
映画は50年経っても楽しむことが出来ますが、
ゲームは機械とともに消滅してゆくから、
テトリスでさえも、
新しい機械ごとにプログラムを作り直すわけです。
映画に例えれば「撮影しなおし」と同じです。
まさに「使い捨て」、それがコンピューターゲームです。
相当なコストがかかるし作り手である僕たちとしても、
努力した作品が、作り直さない限り
二度と遊んでもらえないことに、
やるせなさを覚えているのも事実です。
こういう理屈ですから
「ヒットした作品だからといっていい作品とは限らない」
とは僕は思いません。
地球資源を消費してモノを作った以上、
なるだけたくさんの人に
元気になってもらわなければ困る、そう思うわけです
|
さてゲームは何の役に立つのか? |
さて、僕がどうして
ゲーム作りという仕事に惹かれたのか、
についてお話しすることにします。
僕は、とても理解が遅い人間です。
小学生の頃、社会科の授業で、
日本の人口密度の地図というのを
見せられたことがありました。
地図上に、赤い点がプロットされていて、
それが密集しているのが大都市という説明でした。
言いたいことはわかるが、なにかがおかしい、
という疑念が当時の僕にあって、
心の中にずっと残っていました。
その気持ち悪さの原因がはっきりとわかったのは
大人になってからでした。
その疑念を一言でいうならば
「人口密度はプロットされるものではないだろう」
というものです。
人口密度というのは100m四方などの格子の単位で
仕切られて初めて判るものです。
移動体であるプロットとして
集まったり拡散するものではない‥‥
当時の同級生たちが
どこまで理解していたのかは不明ですが、
僕には大きな違和感がずっとあった。
ま、言葉でいうのはややこしいことですから
この話はここまでにします。
重要なのは、「教科書のような紙メディアは
理解を促すがあまりに無理がある」と思うのです
|
理解ってなんだ!? |
僕は仕事をする上でこんな信念を持ってるんです。
「しっかりと理解がいったら、
どんな人も味方についてくれる」と。
それが人間の元気の源ではないか、と思ってます。
人にはさまざまな性格があって、
すぐに理解しようと早合点する人もいれば、
納得がいくまでクビを縦に振らない人もいます。
人間は、「一匹になると死んでしまう、珍しい動物」
ですから、理解というのは種の保存上の課題でもあります。
しかし、人と人のコミュニケーションは誤解だらけです。
意気投合しているようで互いの誤解に気付かない‥‥
それが人間です。
後に取引先とのトラブルとなったり、
貸切パーティー会場で店長ともめる原因になったり、
あるいは電撃結婚後の成田離婚の引き金となったり、
とにかく理解は人間の永遠のテーマだと思う。
冒頭でエンターテイメントを
「人を元気にさせるためのプレゼンテーション」
という表現を使いましたが、
理解したい素材を人々は
心の中にすでにたくさん持っている、と思います。
なので僕は、「人がすでに知ってること」を
作品の題材に取り上げるようにしています。
いや、正確には「知っていると思ってること」です。
それが「なるほどねぇ」と言ってもらえる
最大のポイントだからです。
そしてそれが、人が元気の源だと思うからです。
ゲームは、文字や映画とちがって、
時間軸を前後左右に行ったりきたりすることが出来ます。
理科実験のように、
納得するまで何度でもいじくり倒すことができる、
それがプログラムの特徴です。
こんなに面白いメディアはいままでみたことがない‥‥
|
元気であること |
ゲームには二つの側面があって、
ひとつは(旧)通産省管轄の、工業技術という側面。
そしてもうひとつは(旧)文化庁管轄の作家的表現の側面。
このふたつが交錯する「ゲーム制作」は、
複雑で金がかかり、ひどく消耗する仕事です。
それでもこの仕事に従事する僕のモチベーションは、
たった一つです。ゲームという動的なメディアが、
人間の「理解」に一番近い存在であると
信じているからです。
ゲームは教育的手法をたくさん含んでいます。
しかも商用ですから、人をおもしろがらせないと売れない。
こんな難易度が高い新領域を開拓するには、
大企業の支援とか、国の補助がないとできないよ‥‥
そんなことを思いながら、
資金繰り表を映し出したパソコン画面の前で、
途方にくれながらポテトチップスをかじっている
自分がいるわけです。
お金の心配をしなくていいのであれば、
もっともっと挑戦したい作品があります。
取引先である任天堂の社員を
羨ましく思うことも多々あります。
それでも、前に進もう‥‥そういう気持ちを
持っていられるのは、
鉄腕アトムの番組制作費を補填するために
雑誌連載に明け暮れた手塚治虫氏の姿は、
「人を元気にする仕事の人間が、
元気を失っていてはならない」
ということを教えてくれるからです。
元気を失った人類は滅ぶ。
いや、浪費に走った挙句に地球まで滅ぶ。
エンターテイメント業界というのは、
人類という連鎖の中で、
人を元気にする使命を追っています。
私もそういう自覚をもって
これからもこの業界に携わっていこうと思うわけです‥‥。
またおあいしましょう。
と、取り留めのない文章になってしまいましたが、
これが、メイキング・オブ・シーマン2の
最終回の結論でしょうかね。
シーマン2というゲームのテーマが、
今回語ってきた内容そのものだったりします。
いまちょうど売ってますから
お店で見かけたら是非声をかけてやってください。
最後になりましたが、私の遅い原稿を
いつも気持ちよく受け取ってくださった
「ほぼ日」編集部の武井義明さん、
そして貴重な機会を与えてくださった
糸井編集長に謝意を表しつつ、
「斉藤由多加のもってけドロボー」
最終回のむすびとさせていただきます。
ありがとうございました。
子供は正直だ。直感的なものにしか興味を示さないから。
そして本当は大人もそうありたいと思っていると思う。
|