もってけドロボー! 斉藤由多加の「頭のなか」。 |
いわれてはじめてわかること。 <情報は耳から入ってくる>
世の中はたくさんのニュースで溢れているのに、 目に入る景色はいつもとなにもかわらない。 ニュースや事件というのは、 メディアの中でのみおきているのではないか、 と思えてくるほどです。 年末に「ぼー」とテレビを見ていて気づいたのは、 私の知り得ているおよその情報というのは 「目」ではなく「耳」から入ってくることでした。 それは音声を消したニュース番組や ドラマを見ているとさらに顕著でした。 音声のないテレビ映像というのは、 まるでカラオケのイメージ映像のようです。 肝心なことはすべてことば(音声とテロップ)であって、 映像はそのつけあわせとでもいいましょうか、 べつだん無関係な映像がそこにあったとしても、 さして影響はないような気がする訳です。
下の写真は、カリフォルニアのハイウェイを 走っているときに偶然うつしたものです。 車が炎上していることだけはわかりますが、 それ以上のことはなーんにもわからない。 人に話そうにも、自分にはなにも 情報をもっていないことにあとになっておどろくわけです。 ところが翌日になって、 この事故がL.Aタイムズのトップを飾っていました。 その記事が↓これです。 このときはじめて私の中で この事故が「事件」になりました。 新聞をよんでこれがたいへん危険な事故であったり、 高速のラッシュアワーに深刻な影響を与えた、 といったこともわかりました。 ものごとというのは、 誰かによって記述されてはじめて (ニュースとなって)出現します。 たまたま現場に居合わせた者にとって、 目の前に広がっている事象というのは まるでボーっとした「もや」のようなものです。 旅行者ならなおさらです。 こうして、ことばにしてもらってはじめて 理解可能な形(ニュース)となった、 つまりここでも情報は目からではなく 耳から(つまり言葉で)入ってきたのです。 記事内にある表現、「たいへん危険な」とか 「深刻な影響」といったことは すべて記者の視点ですから。 うそではないが、 「いやこんなのはたいしたことない」 という意義を唱える人もいるでしょう。 ジャーナリズムにはもちろんその表現に いくつも基準がありますけど、おおざっぱにいえぱ、 ことばとになった時点で 必ず誰からの視点がはいっている。 ここで大事なことは、そういう視点がはいっていて はじめて僕は知識とすることができたということです。 <いわれてはじめてわかること>
──という表現があります。 おなじひとつのことを見ていたつもりなのに、 自分はなにも見えていない、時などにつかわれます。 「生のアメリカを見たい」 そう意気込んでニューヨークにいってみたところで、 実はなあんにも見えていなかった、 なぁんていう経験はありませんか? そんなときに痛感するのは、 「見れる情報」というのが、 視力ではなく知識や経験によって 決まるということだったりします。 |
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2005-01-09-SUN
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