第8回 ゲームのウリ
さて、いよいよ第8回となってきました、
メイキング・オブ・シーマン2。
このゲームのウリはなにか?
というのが今回のテーマです。
しかし本音をいいますと、毎度のことながら自信がない。
発売時期のインタビューとかその他広報物では、
「自信作です」といわなきゃならないんですが‥‥
新しいことをやろう、と企画段階では
自信満々ではじめるんだけれど、
新しいことってのはなかなかうまくいかない。
だからいつも反省と後悔ばかりです。
その迷いのほどはこれまでの本連載から
類推していただくとして‥‥。
ですので、毎度の事ながら
今回のソフトのウリがあるとすれば、
「実験的」ということでしょうか。
ちょうど懺悔のように、
今回は実験した点をお話しようとおもうのです。
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実験その1
メインキャラクターが2人いるということ |
ユーザーと対峙するメインキャラがふたつある
(原人とシーマン)のも、
全体のバランスをつくる上でかなりの難易度でした。
ユーザーというのはかならず、
自分を投影する主人公を求めるものです。
ところが、シーマンというゲームは会話ソフトなので、
投影ではなく対峙という点で異色だったのですが、
今回はその話のネタを外に求めるために
「北京原人」という対象を別につくった。
それが全体の中でどう着地させるか、が
ゲームのデザインにおいて大きなポイントとなりました。
今回のキャラクター設定を整理すると表のようになります。
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前回 |
今回 |
育成対象のIQレベル |
高い(人面魚) |
低い(北京原人) |
方向 |
魚から教えられる側 |
人間を育てる側 |
シーマンの役割 |
おばあちゃんの知恵袋 |
うるさい姑(育児に関して) |
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実験その2 死の描き方 |
このソフトの企画段階で、母を目の前で亡くしまして、
さらに製作途中で父が癌の手術を2回受けるという
ハプニングがありました。
企画者の世代が「死」を意識する時期にさしかかった‥‥
ということでしょうか。
通常のゲームソフトというのは
「死がリアルに存在しない」ものが多く、
あまのじゃくな性格なものですから、
今回は真正面から表現してみようと思っていました。
人が生きるって何だろう?
それを表現するには「死」を避けて通れない。
そんなことをゲームの中で表現することは、
とても実験だったように思います。
ゲームという分野は
ファンタジーを扱うことには慣れていますけれど‥‥。
もうひとつ、その背景にいれたのは「環境」です。
島という閉鎖空間、
つまり有限資源での育成とすることで
森がどんどんと枯れてゆく。
環境問題をテーマにした、
なんて大げさなことをいうつもりはないのですが、
それでもこのゲームの中で
かなり環境が大きな位置を占めているのは、
ここ数年で僕たちの地球の大きさに対する見方が
変わったからではないかと思うのです。
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実験3 人間の性とか恋愛 |
北京原人は育成キットの中で子供をつくります。
そのつがいとなる女性の北京原人も
途中から入手(?)でき、
そして彼女は妊娠し出産します。
そしてこのプロセスをどう描くか、も
ずいぶんと悩みました。
「人間の性」、と「性的表現」は
まったく異質のものですが、
子供相手の玩具として生まれた
ゲーム業界の規律はとても厳しく、
ここらについても業界は
もっと進化する必要を感じましたね。
そして生まれたその子供は、
氷河期を乗り越えて一人でいきてゆくことになりますが、
この後半がどちらかというとメインになってきます。
たった一人で生きる彼はまるっきり知らないわけです、
「異性」という存在を‥‥。
彼がその孤島で存在を知るきっかけが必要になりますが、
そのモチーフになるのが、
島に流れ着いたラジカセから流れてくるこの歌です。
歌詞の内容はゲーム内の会話とリンクしていまして、
ユースケ(彼の名前です)は、
この唄の歌詞から、人間が自分ひとりでないこと、
そして、恋という存在を知ることになります。
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まとめ |
総じていうと、いろいろと実験的な試みをしていながら、
それを作品としてまとめることに
大変な労力がかかってしまったのがこのシーマン2です。
「この作品の出来がいいのか」、
という冒頭に自信がないのはそのためでして、
自分の力不足に反省する日々です。
拙い作品でありますけれども、
「作者たちはこんなようなことを描きたかったんだ」、
なんてことをすこしでも感じていただけるとありがたいです。
さて、10年近くにわたって
細く長く書かせていただいた
「ほぼ日」の「もってけドロボー」ですが、
次回が最終回です。
次回は、締めくくりとして、ゲーム作りを通じて
この10年間で感じたことを
一気に書かせていただこうと思っています。おたのしみに。
(つづく) |