糸井 |
そもそも、石坂さんがいた
慶応の劇研というのは、
名うてのサークルなんですか?
帝京高校サッカー部みたいな。
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石坂 |
どうかなぁ。
「生意気中の生意気」という評判だったんです。
六大学で大学演劇祭みたいなのを
やるじゃないですか。
みんな、それ相応の劇をやっているのに、
ぼくたちだけサルトルの
『出口なし』なんかを
やっちゃったりするんですよ……。
やってる方も、誰も、わかっていないよ?
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糸井 |
(笑)特に背伸びがはげしい集まりなんだ。
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石坂 |
それで他の大学みんなから
非難されていて……
東大ですらけむたがる(笑)。
「俺たちすらやらないものを、
おまえら、なんでやるんだよ」みたいな。
高校の演劇部にしても
他の高校はみんな
かわいらしいものをやっているのに、
フェレンク・モルナールの
『リリオム』なんてやっちゃうわけだから。
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糸井 |
(笑)あいたたた……。
それは主に、石坂さんが悪かったんですか?
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石坂 |
いやいや、そうじゃないです。
伝統です。市川猿之助さんから続く伝統。
みんな、そういうやつばっかりだったんだ……。
でも考えてみると、
大先輩の猿之助は、
ずっと生き残っていて……
だからぼくには、あの方が今、
ああいうスーパー歌舞伎をやっている気持ちを
わかりますもの。
もともと、そういう人だったんです。
猿之助さんは、三越劇場を借りて
『宝島』をやったり……
ふつうは、なんとか公会堂とか
区民会館だとかじゃないですか。
でも猿之助さんは
三越劇場を借りてやっていた。
まぁ、ぼくらの頃は断られましたけど。
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糸井 |
その後は、劇団四季に入るんですか?
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石坂 |
大学時代も、
四季の芝居に出させてはもらいましたけど、
ちゃんと入ったのは、
大学を卒業してからです。
大学二年の頃あたりに、
タイムリミットが迫ってきたわけです。
この道で食えるか食えないのか……。
まわりは
「どうするんだい? 勤めるのか?」
と言うし、親父は親父で
「勤めるなら今からコネを探さなきゃいけない」
みたいな言い方をするし。
でも、私としては、
とても会社員は勤まらない、
とか思っているうちに、時間が過ぎていった。
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糸井 |
学生時代に、
それだけおもしろいことを
経験しちゃったら、
今さら、勤められないですよね。
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石坂 |
そうだね。
だから、もうこうなったら
この道でいいやと思ったんです。
最初は、大学を辞めようと思いました。
実際、一年間は学校に行かないで、
仕事をやっていましたが……
『ウルトラQ』のナレーションだとか。
それほど急に
ガッと脚光を浴びることはありませんでした。
それだけで
食えるまでにはいかなかったんですね、やっぱり。
それで最終的には、もう一年
学校には行ったほうがいいと考えなおしました。
親父のためにも、
卒業はしたほうがいいか、みたいな感じになって。
……それで大学時代の最後の年、
『太閤記(一九六五年のNHK大河ドラマ)』
に出ることになったわけです。
その前から、テレビでポツポツと
主役をやるようにはなっていたんですけど。
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(つづきます)
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