糸井 『家族ゲーム』に
俳優として出演なさっていた伊丹さんが
撮影の合間に、現場で
映画の話ばかりしてたそうですね。
宮本 ああ、『家族ゲーム』はちょうど、
映画を撮る前あたりです。
糸井 いちばん熱いときですよね。
宮本 バイクで毎日4軒ぐらい、
映画館をまわって
観ていた時期だったと思います。
糸井 そういう準備期間があったのかぁ。
宮本 いや、そのときは
映画を撮りたいと思っている、という
確たるものはなかったと思います。
糸井 へえぇ。
宮本 でも、観だしたんですよ、急に。
すごい勢いで観てました。
糸井 監督になろうと思う前に、ですか。
宮本 うーん‥‥、
まずは、自分は
映画は撮りたくないと思ってたんですよ。
やりたくない、やらないだろう、と。
糸井 おお、そうなんですか。
宮本 でも、ある時期に
そんな感じで映画を観はじめて、
やがて私の父の死がやってきます。
つまり、お葬式ですね。
糸井 うん、うん。
宮本 ふたりで火葬場の煙を眺めながら、
あっ、これは、何か
小津映画の中にいるみたいだね、
これは映画だよ、なんて話して。
じゃあ、映画をつくろうか、と。
糸井 それはすごいマグマがつながってますね。
お父さんのお葬式の前に
映画を観はじめている伊丹さんがいて‥‥
宮本 すごかったですよ。
ともかく、何本も、何度も
観てました。
糸井 何本も観るということは
きっと「つまらない映画」も
観てただろうし‥‥ビデオも観てました?
宮本 ビデオは、すごく観てました。
ブニュエルやヒッチコック、
ジョン・フォード、ありとあらゆるものを。
糸井 伊丹さんって、なんだか、
「研究家」というイメージがあります。
だけど、あんな伊丹さんなのに、
自分がつくったのは
研究者のような映画じゃなくて、
ものすごい大衆娯楽の方向性を持つ
作品でしたよね。
ぼくはそこに、なにかを感じるんです。
1本目から、ちゃんと足を踏み出せてた。
宮本 映画はたのしくなくちゃいけない、
ということが、まずありました。
「たくさんの方に観ていただかないと、
 つまらない。そのために、つくるんだから」
って、いつも言ってましたから。
糸井 それは、とっても早い時期からあったんですね。
宮本 うん、そうだと思います。
糸井 その伊丹さんの資質ってすごいなぁ。
ぼくはこの1年間、縁をいただきまして、
いろんな方々に
伊丹さんについて
お話をうかがうことができました。
そして、ふと思ったんですけどもね。
宮本 ええ。
糸井 言い方は少し悪いんですが、
伊丹さんには、
職を失うことの恐怖とか、
ちゃんとお金を稼ぐことへの尊敬とか、
生きていくことへの執念が、
ものすごくあるんですよ。
ずーっと追いかけていくと、伊丹さんは、
アーティストというよりは
街の不良少年みたいだよ、と
思ってしまいました。
生きていかなければ、
なにもならないじゃないか、と
おっしゃっているような気がしてきまして。
宮本 ああ、わかります。
糸井 「いいねぇ、伊丹くんは
 そんな“芸術”してて」
と言われる場所にいたこと、
ないんですよね。
宮本 おっしゃるとおり、
ないと思います。
糸井 そのくせ、“芸術”の人たちに対する理解も
とってもあるんです。
「この人はぜんぜん食えなかったんだけど
 こういうアートをしてたんだ」
とか、ちゃんとぼくらに紹介してくれる。
宮本 映画にも
そういうテイストは入れてますよ。
糸井 ああ、入れてますね。
宮本 引き出しのなかから、
そういうものをいっぱいちりばめて、
入れてあるはずです。
例えば、映画はこれまで
いろんな人がいろんな作品を撮っていて、
「このカット」「このセリフ」
というお手本のようなものがあります。
それはみんな、尊敬して使うべきだと
言ってました。
糸井 人類の資産ですもんね。
ブニュエルだ、アングラのケネスだとか、
伊丹さん、おそらく全部観てたはずです。
それこそ『ドレミファ娘の血は騒ぐ』に
客演したり、
いろんな映画を紹介したりして
「食うだ食えないだ」じゃない映画について
ものすごく自分は親密につきあっておきながら、
「さてやります」というときには、
ちゃんと大きい道に帰ってきて、
運転をはじめるんですよ。
宮本 王道を行く、じゃないけども。
糸井 根性が据わってるというか。
ファン同士がマニアになって語るような
そういう方向には行かない。
宮本 アートへも行きすぎません。
でも、もともとテレビのつくり方だって、
そうでしたものね。
みんなにわかってもらいたい、
というところで、やってました。
糸井 ああ、そうだ。テレビでも、そうです。
変なことしてるふうですけど、
「ぼくはぜんぜん変じゃないですよ」
と言いたい、
そういうメッセージですね。
宮本 だけど‥‥
変な人ですよね(笑)。

(続きます)

column伊丹十三さんのモノ、コト、ヒト。

31. 翻訳家・伊丹十三。

小学校5年生のときから英語を学び、
海外での映画作品にも参加されていた伊丹さんは、
もちろん、英語が得意でした。

またそのすばらしい文章力をも武器として、
海外の書籍の翻訳をいくつかされています。

そのはじめは、1976年11月出版の『ポテト・ブック』
(マーナ・デイヴィス著)。
トルーマン・カポーティが序文を書いている、
じゃがいもに関する事柄を、羅列したおもしろい本です。
ここで、伊丹さんの得意の料理についての知識や
解説力が発揮されています。

1979年には人気作家ウィリアム・サローヤンの著作
『パパ・ユーア クレイジー』の翻訳を手がけました。
「僕は」「僕の父は」といった主語を
すべて記述するという、日本語的でない
変わった翻訳になっています。
少年が父との暮らしの中で、人生や世界を学んでいくという
やわらかい哲学のあるお話です。
この小説には飲食のシーンがたくさん出てきて、
昔読んだという人に聞くと、
ムール貝ばかり食べていたような印象が残っている、
というほどです。
いまから30年以上前の作品ですから、
日本人にとっては、ムール貝ということばの響きが
新鮮だったのかもしれません。

1983年には『主夫と生活』(マイク・マグレディ著)を
翻訳されています。
生活費を稼ぐのを奥さんに任せて、
しぶしぶ主夫になった男性の体験を書いたもので、
これもその頃には
そうとう斬新な設定だったのではないでしょうか。
伊丹さんのように、料理も生活も楽しむ
翻訳者を得たのは、僥倖だったといえるでしょう。

1985年には、『ザ・ロイヤル・ハント・オブ・ザ・サン』
(ピーター・シェファー)を訳します。
これは戯曲作品『ピサロ』となり、
山蕪wさんプロデュース兼主演で、日本で初演されました。
これは山浮ウんからの依頼で、
結果的にすばらしい興行成績を収めたそうです。
ここに出演していた新人俳優の渡辺謙さんは
脚光を浴びることとなり、伊丹さんの監督第二作
『タンポポ』に、山浮ウんともども出演されました。

1996年には、中年であることを誇るべきことと
さまざまな面から語る、『中年を悟るとき』
(ジャンヌ・ハンソン著)を訳されました。
イラストは南伸坊さんが担当され、
ユーモラスな一冊となっています。

英語力があり、文章がうまく、ユーモアのある
伊丹さんは、もし翻訳のお仕事をつづけられても
一家をなしたのだろうな、と思わせる作品群です。
(ほぼ日・りか)

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カバーの絵は、矢吹申彦さん。

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参考:伊丹十三記念館ホームページ
   『伊丹十三記念館 ガイドブック』
   DVD『13の顔を持つ男』
   『伊丹十三の本』『伊丹十三の映画』ほか。



2010-02-01-MON