山下 |
わあ、これはまた、きちんと並んで‥‥。
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岩見 |
ね、かわいいでしょう?
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山下 |
はい(深くうなずく)。‥‥‥‥あ、あ。
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山下 |
下にも! 2段になってるんですね。
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岩見 |
そう。もう、どれにするか迷うでしょ?
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岩見伸一さん(既婚)は
「晩酌や」という居酒屋のご主人さん。
渋い飲み屋のおやじさんでありながら、
この移動ケーキ屋さんの
愛らしい焼き菓子を食べ続けているとか。
ケーキ屋さんの名前は「トレ・プチ」。
フランス語で、
「とってもちっちゃな」という意味です。
さて、気がつけば、
「とってもちっちゃな」お店のまわりは、
女性のお客さんでいっぱいになっていました。
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山下 |
すごい人気ですね。
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岩見 |
みんな葉子さんが来るのを待ってるんです。
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山下 |
お客さんは女性がほとんどのようですが‥‥。
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岩見 |
そうですね、お菓子ですから。
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山下 |
岩見さんは、この中にこうしていつも
男性ひとりで並んでるかんじですか。
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岩見 |
はい、そうです。
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山下 |
すこし、照れくさくは‥‥。
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岩見 |
ああ、最初は照れくさかったですよ。
男が立ってると目立ちますし。
でも、おいしいものを食べたいので‥‥。
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山下 |
なるほど、背に腹はかえられないと‥‥。
ほんとにおいしそうですもんねえ。
(箱をのぞき込む)ええと、これは‥‥。
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山下 |
ベリー系のタルトかあ。きれいだなあ。
で、こっちのは‥‥。
あれ? 手前のケーキ、トマトがのってる。
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葉子 |
それはキッシュなんです。
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山下 |
‥‥‥‥‥‥‥‥はい(赤面)。
‥‥こ、こんにちは。
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葉子 |
こんにちは。
どれにしましょう?
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山下 |
は、はい。
え、ええと‥‥。い、岩見さーん!
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岩見 |
はいはい、どうしました?
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山下 |
い、一緒に選びましょう。
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岩見 |
僕はもう買いましたよ。
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山下 |
ええ! いつの間に?
じゃ、じゃあ、僕もはやく決めないと‥‥。
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葉子 |
ゆっくりでいいですよ(笑)。
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山下 |
は、はい。ええと‥‥。
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オレンジとマンゴーのタルト。
ピスタチオの入ったチョコケーキ。
僕は、そのふたつを買いました。
「あたたかくなってきたので、チョコは
サラッとした味わいにしてあります」
などと、ていねいに説明しながら葉子さんは
こんなふうにラッピングしてくれたのでした。

ふたつでぴったり500円。
僕と岩見さんは、それぞれお菓子を抱え、
「晩酌や」へと、ウキウキ入っていきます。
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山下 |
なんだか、こういう渋い居酒屋さんで
焼き菓子をいただくのって、不思議です。
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岩見 |
(笑)そうですよね。
あ、せっかくだからお皿にのせましょうか。
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山下 |
そうですね、せっかくですものね、
お手数ですが、お願いします。
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岩見 |
‥‥‥こんなかんじで(のせる)。
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山下 |
‥‥‥‥あ、ありがとうございます。
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岩見 |
‥‥やっぱり、いつも枝豆のせている皿では、
いまひとつですかねえ‥‥。
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山下 |
や、そんな、大丈夫です、おいしそうです。
さっそく、いただきます。
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岩見 |
‥‥‥‥どうです?
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山下 |
‥‥‥‥ああ‥‥おーいしーなあ。
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岩見 |
はははは。‥‥あ、そうそう、
そろそろコーヒーがとどきますからね。
うちは酒しかないので近くの喫茶店に
出前をたのんでおいたんです。
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山下 |
何から何まで、ありがとうござ‥‥
‥‥ああ、ほんと、おいしいです。
岩見さんは何を買ったんです?
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岩見 |
僕は、フィナンシェを。
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山下 |
またそれも、おいしそう‥‥。
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岩見 |
あ、食べますか。
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山下 |
いやいや、それは岩見さんの分ですから。
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岩見 |
いえいえ、どうぞ食べてくださいよ。
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山下 |
‥‥じゃあ、半分こしましょうか。
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岩見 |
あ、いいですね。
よいしょ(半分にする)、さあ。
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山下 |
これはこれは(お皿で受け取る)スミマセン。
‥‥では、いただきます。
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岩見 |
どうぞどうぞ。
あ、コーヒーが来ました。
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数時間後には酔った常連さんでいっぱいに
なるであろう店内で僕は、
合計2個半の焼き菓子を食べたのでした。
カウンターの中で仕込みをはじめる岩見さん。
もうすこしだけお話をうかがってみましょう。
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山下 |
もともとケーキはお好きなんですか?
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岩見 |
ええ、酒飲みですが甘いものも好きなんです。
でもケーキは、よそで買わなくなりました。
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山下 |
ああ、そんなに「トレ・プチ」ファンに‥‥。
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岩見 |
はい。‥‥あの、とうとつですが‥‥、
僕は、散歩が好きなんです。
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山下 |
え? ああ、はい、散歩。
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岩見 |
こういう本をポケットに入れて歩くんです。
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山下 |
樹木の図鑑ですね。
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岩見 |
はい、ゆっくり歩きながら、
いろんな木を見てまわります。
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山下 |
いいですね、季節を感じながら。
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岩見 |
‥‥それと、風も好きなんです。
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山下 |
風、ですか。
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岩見 |
ええ、昔ヨットをやってたこともあって。
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山下 |
樹木と風‥‥。はい、すてきだと思います。
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岩見 |
ありがとうございます。
‥‥で、なんていうんでしょう、
「トレ・プチ」が、そういうかんじなんです。
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山下 |
ん? 樹木と風なかんじですか。
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岩見 |
季節を感じる焼き菓子を、
自転車ではこんできてくれる‥‥。
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山下 |
ああ‥‥。
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岩見 |
やってきた自転車の箱の中に、こう、
ヨーロッパのおばあちゃんがつくったような
着飾ったところのないケーキが並んでて‥‥。
そういう様子がすべて、かわいいんです。
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山下 |
様子がかわいい。
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岩見 |
はい。でも、かわいいだけではなくて、
きちんと、おいしい。
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山下 |
‥‥‥‥お話をうかがっていたら、
なんだかもうひとつ食べたくなりました。
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岩見 |
まだいるんじゃないかな、行ってみます?
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山下 |
行きましょう!
僕はあのベリーのタルトをどうしても‥‥。
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と僕たちふたりは、
半地下にある「晩酌や」の戸口を出ると、
タタッと階段を駆け上がり
往来の「トレ・プチ」へと向かうのでした。
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山下 |
‥‥‥‥‥‥あ。
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葉子 |
さっきはどうも。(パタンパタン)
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岩見 |
場所、変えるんですか?
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葉子 |
ええ、向こうの通りに行ってみます。
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山下 |
あ、あの‥‥。
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葉子 |
‥‥はい?
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山下 |
さっきは気づかなかったのですが、
この箱、はっぱの絵が描いてあるんですね。
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葉子 |
あ、これですか‥‥。
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岩見 |
‥‥山下さん。葉子さんは、
葉っぱの子と書いて、葉子さんなんです。
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山下 |
え? ああ、そうかあ。
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葉子 |
(笑)では、また‥‥。
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だいぶ西に傾いた陽光の中、
路地の向こうへ消えていく自転車を
僕たち男ふたりは、
しばし目を細めて見つめていました。
4月の晴れた水曜日、
のどかな夕方のお話です。
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