糸井 |
僕は先日、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」
というイベントに行ってきたんです。
それは、人工的につくった暗闇の空間を、
グループで歩く、というイベントなんです。
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川上 |
善光寺などにある、胎内めぐりのような?
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糸井 |
それに近いです。
水が流れていたり、
落ち葉が敷き詰められていたり、
バーのカウンターがあったりするんです。
あるいは、プラットフォームがあって、
電車が来るから危ないということあらわすような
音がしたりする。
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川上 |
暗闇の中では、怖いですね。
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糸井 |
そういった、ひじょうに簡単なフィールドが
真っ暗闇の中にあるんです。
そこで、白杖と呼ばれる
目の不自由な方が使う杖を受け取り、
グループ5〜6人が名乗り合って、
暗闇の中を出発するんです。
「川上と申します」
「糸井と申します」
「じゃあ、参りましょう」
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川上 |
なるほど。
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糸井 |
グループを案内するリーダーが全盲の方なんです。
「では、前に進んでください」と言われても、
まずは、進めない。
でも、目に見えない世界をずっと行くことで、
触感やさまざまな感覚が
どんどん研ぎ澄まされてくるんです。
「木の切り株があったぞ、
その切り株の真ん中に穴があいていて、
水がたまっている!」
水たまりを探りあてた人が、
手に水をつけて、みんなに振りまいたりするわけ。
普段だったら「やめろよ」ということでも、
すごくうれしいんです。
そして、わらのようなものに手が触れたときに
「あっ、わらだ!」とうれしくなって、
ポケットに2、3本入れたりしました。
あとで「これにじーんと来たのか」と
思いたかったんです。
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川上 |
それを外で見たとき、どうでした?
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糸井 |
ぜんぜん違いました。
暗闇にいるときのほうが、
わらを大きいものとして感じていました。
わらにさわっただけで、ふかふかした大きなものを
イメージしていたんです。
「俺、持ってきたんだ」と言って、
外でみんなに自慢気に見せたら、それは
しょぼしょぼした、ただのわらだったんです。
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川上 |
(笑)なるほど。
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糸井 |
暗いことで、自分の能力が
活きてくるのがわかったんですが、
そこで、頼りになるのは、
やっぱり言葉だったんですよ。
階段をのぼるとき、
リーダーの人が
「石段がそこに3つあります」
と言ってくれるんです。
手で探ったら、階段があることはわかるんですが、
リーダの、その「3つ」という言葉を
信じ切れないとのぼれない。
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川上 |
暗いわけですから、
ほんとうに、そうでしょうね。
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糸井 |
その中では、うそをついてないということを
お互いに前提として、
共同作業をしているんです。
なのに、僕はすごいことをやっちゃってね。
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川上 |
なんですか?
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糸井 |
ちょっと声色を変えて、
「ヤマザキです」と言ってみたんです。
もちろん、その場にそんなやつはいないんです。
そうしたら、そこにいた、
普段僕がうそをつくのを
よく知っているような人たちが、
「えっ、いまのは誰?」って
不安そうに言い出した(笑)。
僕も引っ込みがつかなくなっちゃって
「誰だよ? いまのは」と、調子を合わせて。
怖くなっちゃったので、
ヤマザキは、二度と声を出せなくなりました。
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川上 |
ものすごく怖い話ですよ。
一度だけ声を出したヤマザキ。
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糸井 |
外に出てから、
「あれは俺がやったんだ」と言ったら、
「ほんとですか?」と、みんなが驚くんです。
うその言葉というのは、社会や人間を
実はめちゃくちゃにしちゃうものなんです。
でも、僕らはいま、
ものすごいうそに囲まれていても、
平気で生きていられる社会に住んでいます。
川上さんがやっていらっしゃることも、
ほんとうとうその区別がどっちだか
わからない、ということを扱っていますね。
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川上 |
本には、そういうところが
あるかもしれませんね。
今日、最初に読み上げた文の中に、私は
「自由」という言葉を使いました。
言葉だけしか使えない、という特徴が、
本にはあります。
自分という人間すら関係なく、
ただ言葉の並び方だけで
何かを伝えようとします。
例えば映画であれば、
音もあるし、画面もあるし、いろいろあります。
だいたいのことが1種類の伝達手段だけでは
成り立っていなくて、
いくつかの手がかりがあるものなんです。
暗闇の中でものにさわったり、
声を聞いたりするだけで
何かを感じとるという、
その不自由なフィールドと同じようなものが、
言葉であらわされている本にはある。
ただ、それが反対に、
自由さにつながるかな、と思うんです。
その自由さは何かというと、
わらをさわったときにすごいふかふかと感じる、
というようなことなんです。
それは、普段なら感じられません。
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糸井 |
そうですね。
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川上 |
目で見た情報とそれまで知っている情報、
いろいろなものに、私たちは
反対に縛られている。
本においては、
文字の意味は知っていますけど、
その意味をどう使うかも
書き手にゆだねられているので、
何でも創造できちゃう世界が
あるのかなと思ったりします。
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糸井 |
ものごとと自分との関係が
一期一会になるということも、ありますね。
川上さんが例えば「私はある花を見た」と
書いたときに、
何回見ても同じ言葉なんだけれども、
書いたときの「私」「花」「見た」、
というのは、二度と来ない。
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川上 |
来ないですね。書き手にとっては来ないし、
読み手にも、同じものは来ない。
自分の書いたものを読み返して推敲しても、
違う花になっちゃっているんです。
ほかの人の書いた小説でも
昨日読んだのと今日読んだのでは、
同じものでも違っちゃいます。
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糸井 |
それが、自由である、と。
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川上 |
ほんとうは、そんなふうに
自由に感じられるというのは、
幸運なことなんです。
体力がなくなっていたりすると、
一度読んだものは、
前読んだとおりにしか受け取れないことも多い。
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糸井 |
前にさわったときに象の形をしていたから、
あの話は象だろうといって
おしまいにしちゃうんだね。
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川上 |
面倒くさいというところもあって、
すぐ象だと決めたがるんです。
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糸井 |
二度目はきっと、
その象の形じゃなく見えるかもしれないのに、
変わってほしくないという保守的な思いが
じゃまをするんですね。
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川上 |
違うところに行くことって、怖いんですよ。
最近「本ばなれ」などと言われますけれども、
そこにひとつの
原因のようなものがあるんじゃないかな。
「相手が差し出す形のまま受け取っていればいいか」
というふうに思えちゃう場合も
確かにあるわけです。
もちろんつくり手のほうは
そう考えていないかもしれないんですけれども、
そういうもののほうが楽。だから、
限りなく自由に読んでいいんだよと言われる、
怖いことは、なんとなく敬遠されてしまう。
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