小林秀雄のあはれといふこと

しみじみとした趣に満ちた言葉の国日本。
そんな国のいとおもしろき言の葉を一つ一つ採取し、
深く味わい尽くしていく。
それがこの項の主な趣向である。


其の百四拾六・・・涙腺


「うっ、うう」
「どないした。目に何か入ったんか?」
不意をついてこぼれてきた涙。
それを隠そうとした北小岩くん。
だが、人の恥ずかしいところを見つけるのは
神がかり的といわれる小林先生が、
見逃すわけはなかった。

北小岩 「今通りかかった幼稚園で、
 卒園式をやっておりました。
 あの愛らしいひよこさんたちが、
 先生にお別れだっこされているのを
 眺めているだけでわたくしはもう」
小林 「お前そういえば、
 さっきの曲がり角でも
 目を赤くしとったやろ」
北小岩 「顔が地面につきそうなぐらい
 腰の曲がったおじいさんとおばあさんが、
 手をつなぎながら微笑んでおりました。
 わたくしもそろそろ年でありましょうか。
 心揺さぶられる場面に遭遇すると、
 すぐに涙腺が騒ぎ出し制御できません」
小林 「北小岩の場合、
 まだそれほど年ではないわな。
 ほんとに年をとった時の涙腺のゆるみは、
 そんなもんやないで。
 後学のため、
 俺の知り合いの老人のところに
 茶飲み話に行こか」
町はずれにある木の上に、
小さな小屋をつくって住んでいる涙腺じいさん。
じいさんの家にたどり着くには、
かなり高度な木登り技術が必要だ。
北小岩 「ふう。
 さすがに膝が笑いました。
 地上10メートルのおうちは侮れません。
 おじいさまも生活するのが
 大変ではありませんか」
涙腺
じいさん
「登るのはそう難儀ではありまへん。
 でも近頃、
 涙腺がゆるくなってゆるくなって
 たまらんす」
北小岩 「そのことです。
 わたくしも何かといえば
 すぐに目頭が熱くなり、
 あたたかいものが
 あふれてきてしまうのです」
涙腺
じいさん
「わしも若い頃には、
 喜びや悲しみ、別れや死に対して
 涙していたもんにゃ。
 でも69歳を過ぎてからは、
 かなり範囲がおっぴろがってしまった。
 その頃から、虫の交尾を見ても
 瞳を濡らすようなあんばいじゃて」
北小岩 「おじいさまのやさしさを感じます」
涙腺
じいさん
「ところがそれが進行していき、
 今では道に落ちている糞にも、
 涙してしまうようになったんにゃ」
北小岩 「なんと!」
涙腺
じいさん
「多くの人から
 嫌われる存在であるにもかかわらず、
 懸命にこの世に生を受けてきた。
 湯気が出ている産まれたて
 ほかほかのものなど見たら。
 それがもし踏まれていたら、
 もう号泣にゃ」
小林 「う〜む。
 わび、さびの世界かもしれんな」
涙腺
じいさん
「おならも目に沁みますて。
 あの妙ちきりんな音とともに、
 複雑な臭気が漂ってくる。
 そして何の痕跡も残さずに、
 儚く消え去ってゆく。
 涙なしにはいられんじゃ」
北小岩 「哲学的なものすら感じますね。」
涙腺じいさんは、電信柱に染み付いた小便、
図書館で借りた本にはさまっていた陰毛、
やぶれて食物繊維のようになったパンツなどにも
涙するという。
小林 「北小岩の涙腺など、
 まだまだ若造も
 いいところっちゅうことやな」

小林先生も、若い頃に比して涙腺がゆるゆるになった。
難病の女の子が死にゆくTVドラマはもちろん、
映画館でお決まりの青春ストーリーなどを観ても、
大きくしゃくりあげてしまう。
だが、まだまだ涙腺の世界は奥が深い。
おじいさんのような領域に達するには、
何十年かの歳月が必要であろう。

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2006-03-29-WED

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