その弐拾七・・・修行
弟子「先生、早く花見に行かなければ
桜が散ってしまいます」。
小林「そうだな。ほな行きまひょか」。
さっそく弟子の北小岩くんと花見にでかけた。
僅かなスペースを見つけ、北小岩くんがゴザをしいている。
弟子「ところで先生、私が子供の頃には
よく犬の糞を踏んだものです。
糞を踏んでしまった時のぐにゅという感触、
あれはえもいわれぬ趣がありますよね」。
小林「そうだな。踏んだのがバナナであってくれ!
と祈ってみる。
だが、足の裏には糞がべったりついている。
わざわざ鼻を近づけて嗅いてみる。これが臭い」。
弟子「でも、昔にくらべると糞が落ちていることが
少なくなっている気がするのですが」。
小林「いいところに気がついたな。
それは糞になろうと思って修行する若者が
減ったからや」。
弟子「えっ、糞は若者が修行してなるものなのですか」
小林「そうや。長く苦しい修行をせな
立派な糞にはなれんのや。
糞になるための修行は板前修行に酷似している。
『匂い7年艶10年』といって、
人が顔を背ける匂いを出すだけで7年はかかる」。
弟子「大変ですね」
小林「まずは見習いからスタートや。
見習いの仕事は先輩を運ぶことや。
糞は歩くのが苦手なので、人に踏まれやすいように
人通りの激しいところに運ばねばならん。
それを3年間続ける。
そこで糞親方の目にとまるように努力する」。
弟子「糞親方? それはいったいどんな人なのですか」。
小林「俺も一度しか会ったことがないので
詳しくはわからないが、とにかくデカい。
5メートルはあったな。
そして、普通の糞の200倍ぐらい臭かった。
あまりの臭さのために、
目を開けていられなかったぐらいだからな」。
弟子「ケタはずれに臭いと、
目を開けていられなくなるのですか」。
小林「そうだ。失明の危険もある。
糞親方に睨まれたら
糞の世界で生きていけないんや」。
弟子「恐ろしいことです。
ところで見習い期間の若者は、
糞とはいえないのですか」。
小林「もちろんや。まだ、糞としての体が
できあがっていない。
かすかに匂うこともあるが、
屁のようにすぐに消えてしまう匂いや。
臭い匂いを出すためには、
命がけの修行を続けねばならぬ」。
弟子「いったいどうするのですか」。
小林「ニンニクやニラ、イモなど
屁が出やすい食べ物を食べ、
屁がしたくなったら肛門を
アロンアルファでふさいでしまうんや。
つまり、屁を出さずに7年間過ごす。
そうすると気体だった屁が内部で液体になり、
ついには固体になる。
そうなると、とてつもなく臭い匂いを
発するようになる。
屁は外に出たかったのに
7年間も出してもらえなかったので、
とても怒っている。糞から湯気が出ているのは、
あれは屁が怒っているからなんや。
屁が怒ると、匂いも輪をかけて臭くなるで」。
弟子「そうでしたか。でも、7年間も屁を我慢したら
危険じゃないですか」。
小林「そうや。だから、修行の途中で
死んでしまったりする。それが乾燥糞や。
また、修行に耐えきれずに
ドロップアウトしてしまったのが下痢糞や」。
弟子「それほどまでの危険をおかして糞になって、
何かいいことあるのでしょうか?」
小林「うむ。糞になろうとする若者は、
もともと人を臭がらせるのが好きなんやな。
それに生き甲斐を感じなければとてもやってられん。
それから、人が糞を踏んだときに
この世の終わりという顔をして
靴の裏を覗き込むやろ。
それがとてつもない快感らしい」。
弟子「それだけのために、
これほど苦しい修行をするのですか」。
小林「そうや、だから年々糞になろうと思う若者が
減ってしまっている。
昔は一丁俺が臭がらせてやろう
という気骨のある若者が多かった。
そんなヤツが少ないから、
町の糞が減ってしまったんや。
話は変わるけど何か匂わんか?」
弟子「あっ! ゴザの下に
たくさん犬の糞が落ちています」。
小林「気いつけんかい!
ゴザで糞を踏むアホがおるか!」
日本の落糞量が0に近づいても、
このふたりは確実に糞を踏み続けるであろう。
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