小林 |
「今日お会いする中出郁さんはな、
俺の遠い親戚筋にあたるんや」 |
弟子 |
「男性ですよね。
だけど『いく』というのは
ちょっと女性的な感じのする名前ですね」 |
小林 |
「一瞬そう思うが、実際これほど男らしい名前はないで」 |
弟子 |
「中出郁さん。
中でいく・・。中でイク・・。
たっ、確かに!!」 |
小林 |
「父君が威風堂々とした日本男児に育つよう、
熟考の末に命名されたんや。
中出さんは今年で69歳やが、
三島由紀夫を生涯のライバルと目している」 |
弟子 |
「ということは小説家なのですね」 |
小林 |
「違う。
沼津でふんどしを作っている。
つまりふんどし職人や」 |
弟子 |
「ふんどし職人の方が
なぜ三島さんのライバルなのですか?」 |
小林 |
「つまりな、記憶力が尋常やない。
三島の先を行く男や。
それを自負しておられるから沼津に住んでいる。
東海道本線で三島の先は沼津やからな」 |
沼津駅から徒歩1分。
鯵の開きが並ぶ魚屋さんの裏に、中出氏の仕事場はある。 |
小林 |
「こんにちは。ごぶさたしております」 |
中出 |
「おっ、秀雄くんか。まあ上がってくれたまえ」 |
中出氏は創作中のふんどしを染めながらいう。 |
小林 |
「今日は中出さんの最初の記憶について
おうかがいしにきました」 |
中出 |
「はっきりいっておきますが、
三島の記憶など私からみれば貧弱な屁のようなものです。
彼は生後すぐに使ったタライの記憶がせいぜいですが、
私にはそれ以前の記憶があります」 |
弟子 |
「と申しますと?」 |
中出 |
「精子の時の記憶があるのです」 |
弟子 |
「なんと!」 |
中出 |
「父の睾丸で泳いでいたのが最初の記憶です。
睾丸のほどよい揺れはゆりかごのようでした。
だが、その日は突然来ました。
みんなでお医者さんごっこをして遊んでいると、
大地震が起きたのです。
前へ後ろへ前へ後ろへと、
ガンガン壁に打ちつけられました。
気を失いかけたその時です。
『死ぬ!』という絶叫が聞こえ、
マグマのようなものに吹き飛ばされました。
こっちの方が死ぬ!と思いました」 |
|
弟子 |
「それからどうされましたか?」 |
中出 |
「3億匹の友だちと生温かい沼地に投げ出されました。
私は前方にいたので助かりましたが、
後方にいた2億匹はその後すぐ外に
押し出されてしまいました。
『箱、とってよ〜』という気だるい声が聞こえ、
白い大きなものが入口に押しつけられましたから、
彼らは拭かれ死にしてしまったのでしょう」 |
小林 |
「それでもまだ1億匹以上残っとるわけや。
地獄やなかったですか?
日本の総人口で命がけのマラソンするようなもんやから」 |
中出 |
「受精できるのがたった1匹ということを
知らなかったので、
ギスギスした雰囲気はありませんでした。
私は最初、道を間違え
酸っぱ苦い匂いのする方向に進んでしまいました。
その穴に入りかけた時、誰かが叫びました。
『そこは尿道だ!』と。
もし彼が教えてくれなければ、
私はおしっこといっしょに流され死んでいたでしょう」 |
弟子 |
「危機一髪でしたね」 |
中出 |
「それからは励ましあい必死で泳ぎました。
ですがだいぶ進んだところで前を泳いでいたヤツが
こちらを振り返り
『ここから先にはいかせねえ!俺が受精するんだ』
といって竹槍で襲いかかってきたのです。
ヤツは睾丸の中で
『家庭の医学』みたいな本を読んでいたので、
1匹だけが生き延びられることを知っていたのですね」 |
弟子 |
「竹槍まで用意しているとは恐ろしい男です。
パニックにはなりませんでしたか?」 |
中出 |
「そこからはもう思い出したくないほどの修羅場です。
お互い殴る蹴る。
といっても精子には手足がないので
頭突きで戦うか、尻尾で打ったり
巻きつけて首をしめたりするしかありません」 |
弟子 |
「中出さんはどうされたのですか?」 |
中出 |
「固くてでかかったんですよ。
いや、そこじゃなくて頭がです。
私はなみいる精子をヘッドバットで倒し進みました。
ついにゴールだと思った時でした。
竹槍で前をふさがれ、
ヤツが卵に頭を突っ込もうとしました。
先に入れられたら終わりです。
とっさに叫びました。
『あそこでイイ女が股をおっぴろげている!』と。
ヤツは思わずそちらを向いてしまい、
そのすきに卵に入り込んだのです」 |
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弟子 |
「そいつはどうしました?」 |
中出 |
「『ファック・ユー』といって中指を突きたてたので、
こちらは親指を人差し指と中指の間から
グイッと出し手を振りました。
膜は閉じられ3億匹の友たちに永遠の別れを告げました。
苦しい戦いでした。
人には子宮回帰願望があるといわれますが、
そこに至るまでが黙示録でしたから、
私にはむしろ睾丸回帰願望がありますね」 |
小林 |
「そうやな。
人はちんちんから飛び出した時から戦いの連続や。
睾丸でぶらぶらしていた時が
一番幸せだったのかもしれんな。
中出さん、正月早々貴重な話をありがとうございました」 |
小林先生と北小岩くんは、
東京行き最終の東海道本線に飛び乗った。 |
弟子 |
「先生、またいつかその先のお話も
おうかがいしたいですね。
ところで、もし三島由紀夫さんが
生前に中出さんの話を聞いていたら
どうしていたでしょうか?」 |
小林 |
「ガラス細工のようにデリケートな人や。
きっと自分より記憶の優れた男に遭遇したショックで
筆を折っていただろうな」
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