糸井 |
上の人たちが全員会社をやめて、
いきなりアートディレクターになったの? |
祖父江 |
まだ二十代なかばですから、
アートディレクターと言うのには
ちょっと年も見た目もぼろぼろだったから、
「お前は出席をしないで、
顔を出さないアートディレクターね?」
って、名刺だけ作ってもらって。 |
糸井 |
(笑)
顔を出しちゃいけない
アートディレクターね? |
祖父江 |
だからぼくの考えは
編集者がにぎっていって、
「いやあ、アートディレクターが
こう言うもんで」って。
ぼくは何か影武者みたいで。 |
糸井 |
すごい人と思われたかもしれないんだ。 |
祖父江 |
かもしれないです。
うまいぐあいに、こう、ね? |
糸井 |
見たことないし、ねえ。 |
祖父江 |
誰も見ないわけですから。 |
糸井 |
あはははは(笑) |
祖父江 |
で、まあ、アートディレクターとして
ほんとにちゃんとした人が必要だ、という
会社の判断で、アートディレクターの募集を打って、
それでアートディレクターが来て。
その人にぼくはいろいろ今までのことを伝えて、
で、その時に・・・やっぱり、
工作舎って、賢いじゃないですか。
学より遊びだ、とか言ってるけど、
やっぱり、賢いですよ。
でも何となく、まあ、
みんな、どこでもそうだと思うけど、
中にいるのと外にいるのと違うじゃないですか。
その時に何となく、ぼくは、
まんがだとか、くだらない歌謡曲とか、
そういうのがすごく好きになっちゃって。 |
糸井 |
また反動があるんだ。 |
祖父江 |
それで、急に本を読まなくなっちゃって。 |
糸井 |
(笑)わはははは。 |
祖父江 |
何か・・・と思っていたところで、
しりあがり寿さんが、
大学のふたつ上の先輩で、
同じ学科で。漫研の部長やってたんです。
親しくしていたんだけど。
まんがが、若い頃はアート指向が強くて、
何か、漫研とかが嫌いだったんですね。 |
糸井 |
漫研には、ちゃんと行ってたんだ? |
祖父江 |
ええ、まあ、そうですね。
漫研ってひびきが嫌いで、
「なんだか
つるんでる感が
気持ち悪い」
って思っていたけど、
でもまんがは好きで、みたいな。
そう言ったらしりあがりさんが
そういう人が漫研にいないからそうなるんだ、
と言って。 |
糸井 |
なるほど。
うまいこと言うねえ。
あの人はほんとに、きれるねえ。 |
祖父江 |
そうなんですよ。
で、話がもどりますけど、
しりあがりさんから
まんがの処女本を作るから
一緒にやろうよ、って言われて。
やったあ、やりたいことは、これだよな?
とか思って。
で、会社も
新しいアートディレクターがいることだし、
やりたいこともできていることだし、
と思っていたら、こんどは
秋元康さんが出版をはじめたいということで。 |
糸井 |
へえ。 |
祖父江 |
何か共同出資で
出版の会社を作るから、
アートディレクターを探しているんだ、
って声がかかって。
あ、ということは、
芸能界とかおニャン子とかに
会えるかも、とか思って、
で、会社をやめて。 |
糸井 |
(笑)急に。 |
祖父江 |
でも、雑誌がうまくいかなくて、
それで独立して、というかフリーになって。
しりあがりさんの本をきっかけで、
まんがの依頼が徐々に入るように。 |
糸井 |
その頃最初は何をやっていたんですか? |
祖父江 |
『いまどきのこども』
という、玖保キリコさんのもので。 |
糸井 |
中間色を使って、やってましたよね? |
祖父江 |
はんぱな色だけを使って構成して。 |
糸井 |
あれ、祖父江さんだったんだ! |
祖父江 |
すごい、お金かかる装丁じゃないですか。
雑誌に連載中は、
そんなには人気なかったんですよ。 |
糸井 |
そうですよ。見てる人が見てる、というような。 |
祖父江 |
まあ、これくらいだ、という部数で、
スピリッツ売り上げあがっていたから、
よーし、試しにこれ!っていって、
造本設計で、こんなの無理だよな、
とか思いながら描いたんですよ。
ここが箔だし、ビニールにくるまれるし、
本文用紙はレイド紙といって、
すかすと線が入ってるし、って。
別丁は薄い紙だけど
手作業でぜんぶこういうふうにやって、
とか、まず通らないと思っていたんですけど、
ぜんぶ通っちゃったんですよ。
「いいですよ」って。
シェー、と思って。 |
糸井 |
(笑)シェーだね、そりゃあ。 |
祖父江 |
それでそれが出たらものすごい売れちゃって。
そんで、それからもう、あといろいろ・・・。 |
糸井 |
いわば、装丁としては
メジャーデビューだよね?思えば。
何て言うの? 小さい会社で
まんがをじゃんじゃん作るという
わけではないでしょ?
(つづく)
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