2011年3月11日、東日本大震災がおきました。
10年が経った今日、私たちは、
あの日を思い出したり、
区切りを感じたりするのかもしれません。
日本に住む私たちはそれぞれ、
ここに至る道のりを一歩ずつ進んできました。
今日がほんとうは特別な日ではない、
ということもわかっています。
しかし、どんなに関わりが少なかったとしても、
あの震災に暮らしを左右されなかった人は
いないんじゃないだろうかとも思います。
ほぼ日が親しくしている方々に、
この10年をテーマに、ご寄稿いただきました。
早野龍五さん
ご縁がある限り。
今日、僕の家に、
春の香り豊かな福島の草餅が届きました。
福島県田村市都路(みやこじ)地区の
坪井農園さんからです。
荷物の中には、坪井さんのお米や、
2020年に都路に設立された
「ホップガーデンブルワリー」の
クラフトビールも入っていました。
どれも、とても美味しい。
坪井さん、ありがとうございます。
都路地区は、東京電力福島第一原子力発電所の
約20km東にある、豊かな農村地帯です。
東日本大震災の翌日2011年3月12日の夕方、
福島第一原発から半径20km圏内に
国の避難指示が出され、
坪井さんたちも避難生活を余儀なくされました。
しかしその後、都路の放射線量は20km圏外の地区と
ほとんど変わらないことが分かってきました。
2013年夏頃、僕は、それらのデータを見せつつ、
坪井さんご夫婦をはじめとする、地域の方々の
質問に答える形で、帰還のお手伝いをしていたんです。
その一端は、糸井さんとの共著
『知ろうとすること。』(新潮文庫)に書きました。
都路地区では、2014年4月1日に避難指示が解除され、
(これが避難指示解除の第一号でした)
坪井さんたちはすぐに自宅に戻って、
農業を再開されました。
帰還後しばらくは、放射線量は大丈夫か、
確認するやりとりがあったのですが、
しだいにそんな話題も無くなりました。
今では、日常を取り戻しておられます。
(参考:都路地区に帰還された方は
事故前の90%に達しています)
10年前、たまたま僕のtwitterが、
多くの方々に注目されたことがきっかけとなって、
僕は、ジュネーブのCERN研究所で
物理学の研究を続けつつ、
福島に頻繁に通い、福島の方々が日常を取り戻す
お手伝いをしてきました。
赤ちゃん専用の内部被ばく測定器BABYSCANは、
お母さんたちとのコミュニケーションの場を作る
道具として有用でしたし、
福島の方々の内部被ばくが極めて低いということを
論文という形で記録に残せたことも、
良かったと思っています。
現在、福島には、処理水、廃炉、などなど、
重たい問題がいくつも残っています。
どれも、個人でできるレベルのことではありませんが、
ご縁がある限り、
関係者の方々のお手伝いは続けていきます。
あれから10年。
福島の多くの方々とお友達になりました。
坪井さんご夫婦とは、家族ぐるみのお友達ですし、
学校の先生方や生徒さん、お医者さんなどと、
今でもお付き合いをいただいているのは、僕の宝です。
早野龍五
<早野龍五さんのプロフィール>
早野龍五(はやの りゅうご)
東京大学名誉教授、スズキ・メソード会長、
株式会社ほぼ日サイエンスフェロー。
東京大学理学部物理学科、
同大学院理学系研究科修了(理学博士・物理学)。
スイスにある世界最大の物理学実験施設
CERN(欧州原子核研究機構)を拠点に「反物質」の研究を行い、
1998年井上学術賞、2008年仁科記念賞、
2009年中日文化賞を受賞。
2021年3月、これまでの科学者としての活動をまとめた単著
『「科学的」は武器になる』(新潮社)を上梓。
(つづきます)
2021-03-11-THU