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読者のみなさんから届いたお便り #27

 
生前、母に聞いた母の話をお送りします。
わたしの母は昭和12年、
現在の中国北部(当時の満州国)で産まれました。
母の父親は
満州鉄道ではたらく娘思いのお父さんでした。
母の下に3人の妹がいる4人姉妹でした。
母は満州で小学校に行くことになりましたが、
物資不足で全員分の教科書はなく、
そこでお父さんは、教科書を借りて来て
母のために全ページ写本することにしました。
娘が授業で困らないようにと行数もそろえ、
挿絵もぜんぶ描いて
一冊の教科書をつくりました。
母はその教科書をとても大切に使い、
毎日元気に授業を受けていました。
そんなある日、お父さんは出征していき、
そして、そのあとすぐに戦争が終わりました。
戦争が終わるころ、出征していた
近所のお父さんたちが帰ってくる姿が
見られはじめました。
終戦直前に出征して行ったお父さんも
間もなく帰ってくるだろうと信じ、
姉妹で出窓に座って通りを見ながら、
「今日も帰ってこなかったね、あしたかな?」
と励まし合いました。
戦争が終わるとすぐに満州国が無くなりました。
そこに住んでいた日本人は、
我先にと日本を目指しました。
街にロシア兵の姿が見られるようになり、
女の子たちはみんな
男の子のように頭を丸められました。
母も丸坊主にされ、
男の子の格好をさせられました。
食堂へ行くと、
床に日本人のおばちゃんたちの遺体がありました。
今までこき使っていた現地の部下たちに
殺されたそうです。
ある日、見知らぬ中国の方がやってきて
手紙を差し出しました。
その方の話によると、お父さんから
「この手紙を家に届けてほしい」
と手渡されたとのことでした。
混乱の中、その方は
きちんと家まで届けてくださったのです。
それによると、
「北方面へ輸送される模様、日本で待て」
とのことでした。
母のお母さんは日本で帰りを待つことに決め、
すぐに娘たち全員を連れて日本へと向かいました。
長女だった母は、
生まれたばかりの妹のオムツなど
たくさんのものを抱えていましたが、
荷物のいちばん底に、
いちばんの宝物をしのばせました。
それがあの、お父さんが作ってくれた教科書でした。
ロシア軍も攻めて来る中、
盗賊に遭い命を落とす人たちを尻目に、
命からがら着の身着のまま、
小さな子どもたちは列車の網棚に乗せられ、
何日もかけて引き揚げてきました。
船で京都の舞鶴にたどり着き、
お父さんの実家のある千葉県で
お父さんの帰りを待つことにしました。
結局、ずっと待ち続けたお父さんは
帰って来ませんでした。
噂ではシベリアへ抑留される途中で
殺されてしまったのではないか、とのことでしたが、
実際のところは分かっていません。
家族は、母方の出身地である熊本県に転居しました。
3年ほど前にその母は他界しましたが、
死ぬまで、その教科書を大事に保管していました。
教科書は葬儀の際に棺に入れようかとも思いましたが、
当時一緒に帰って来たいちばん下の妹(私の叔母)に
持っていてもらうことにしました。
叔母は当時赤ちゃんだったためお父さんの記憶がなく、
お父さんのことを感じられる唯一の物だと
よろこんでもらえました。
きっと母も
喜んでくれてるんじゃないかな、と思っています。
(わたる)

2025-09-06-SAT

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  • ヴェトナム戦争/太平洋戦争にまつわる
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