
- わたしの父は95歳、
今は高齢者ホームにお世話になっています。
父は、小学生時代は韓国の京城(ソウル)で過ごし、
中学校時代は陸軍幼年学校にいました。
仙台陸軍幼年学校に配属され、
なだいなださんと同級生だったと言っていました。
幸い、戦争に行くことはなく終戦を迎えましたが、
父から幼年学校時代の話を聞いたことは
ほとんどありません。
それでも、同級生との絆は強かったようで、
同窓会が毎年開かれていて、欠かさず行っていました。
(今はほとんどの方が他界されて、
同窓会も数年前に終わりました) - 父の京城時代の絵日記や、
陸軍幼年学校時代の日記が残っています。
陸軍幼年学校時代の日記は、
記録のようなことしか書かれていなくて、
おもしろくないです。
毎日先生に提出していたため、
誤字の添削や字を丁寧にというコメントが
書かれています。 - 絵日記の方は、小学校2年生の夏休みの記録で、
とても生き生きとした生活が書かれています。
ただ、兵隊ごっこと、
戦地に行く兵隊さんの見送りをすることが、
日常的に書かれているのは、いま読むと哀しいですね。 - この日記を、今後どのように扱ったら良いか、
考えています。
貴重な資料のような気もするし、
どこにでもあるもののような気もします。 - 母は88歳で、いろいろ病を抱えつつも、
元気にしております。
小学校の3年生のときに横浜から地方の親戚の家に、
母親(わたしの祖母)と妹たち(わたしの叔母たち)と
疎開していました。 - 親戚の家での居心地は良くなく、
学校では友だちだけでなく、
先生からも「都会っ子で生意気」ということで、
とてもいじめられたそうです。
大切にしていた消しゴムが、
その日のうちになくなったという話も聞きました。
母親(わたしの祖母)は、
農家に着物を持って行っては買い叩かれ、
悔し涙を流しながら食料をもらっていたそうです。
末の妹(わたしの叔母)は農家の人にかわいがられ、
大きなおにぎりをひとついただいたことがあり、
それをおかゆにして、親戚には内緒で、
4人で分けて食べたと聞きました。 - 疎開先の家の近くには、川が流れていて、
そこには丸太のような橋がかかっているだけだったので、
母は対岸に野草(?)を取りに行くのが、
とても怖かったそうです。
あるとき、母は橋から落ちて川に流されてしまいました。
そのときに親戚の「トラおじさん」が助けてくれなければ、
母は生きていなかったし、
わたしたちも生まれていなかったという話を
何遍も聞きました。
母は、今でも水をとても怖がり、泳ぐことができませんし、
船も積極的に乗りたがりません。
でも、姉とわたしを、
スイミングスクールに通わせてくれました。 - この「トラおじさんは」はその後、
あの洞爺丸に乗船し、亡くなりました。
こうした思い出は、いまだに母のトラウマとなっていて、
母は、疎開していた地方は好きではないと言って、
わたしたちが観光に誘っても行きませんでした。 - (田村さん)
2025-09-19-FRI

