
- 前期のNHK朝ドラも、戦争中のことを生々しく描いていましたね。
あのような場面を見ながら、いつも思うことがあります。 - あの時代に、わたしが小学生だったら、
とても熱心な軍国少女になっていただろうし、
主婦だったら、国防婦人会で率先して活動して、
戦争を賛美しない人たちを非国民と罵っていただろう、と。
そして、終戦を迎えてどうなっていたのだろう、と。 - わたしは、とても「正義」とか「正しさ」とか
「世のため、人のため」に弱いのです。 - なので、学生運動が盛んなころに学生だったら、
その後どうなっていたか、怖くて想像もつきません。
たぶん、運動にのめり込んでしまったと思う。
生きて大学を卒業することが出来なかったかもしれない。 - 平和な時代に生まれ育つことができていることを、
いつもありがたく思いながら暮らしています。 - わたしが物心ついたくらいの時代(1960年代末)には、
まだ、街で「傷痍軍人さん」がハーモニカなどを吹きながら、
道端に座って、お金を乞いていらっしゃいました。 - はじめて買ってもらった児童書は
「気をつけバリケン分隊」という戦争児童文学傑作選でした。 - 国語の教科書にも太平洋戦争を扱った作品が
いくつも(毎年?)載っていたと思います。 - 小学校4年生のとき(1974年くらい)、
ピアノの先生のお家の応接間(待合スペース)には
「はだしのゲン」が置かれていましたが、
わたしはとても怖がりなので、
ちょっとめくっただけで読むことはできませんでした。 - 小5のとき(1975年くらい)には、夏休みの宿題帳に
「お家の人に戦争の話を聞きましょう」
というページがありましたが、
母は「悲しいから話したくない」と話してくれませんでした。
そのページは真っ白のまま提出しました。 - 父からも母からも、戦争中の話を聞いたことはありません。
(父は昭和9年、母は昭和12年の生まれです。) - 母は、NHKの朝ドラも見ませんでした。
「戦争の話が出てくるから見たくない」と言っていました。 - 「おとなになれなかった弟たちに…」を読んだのは、
いつだったか。
「黒い雨」は中学校の教科書に載っている部分だけ読みました。 - 「夕凪の街 桜の国」は、
書評に「怖くない」と書かれていたので読みました。
感想を出版社に送ったら、広告に使っていいかと連絡がありました。
何回も読み直しています。 - 「火垂るの墓」は映画を見終わって、辛すぎて、
「もう一生見ない」と思いました。 - 家族でハワイに行ったとき、
弟が「日立ツリー」を見たがっていて、
ツアーだと真珠湾(アリゾナ)記念館がセットになっているけど、
わたしは「真珠湾記念館で笑顔で記念写真を撮る日本人」に
なりたくなかったので、
そこへは行かないとの約束で行ったのに連れて行かれて、
入り口で号泣しました。
もちろん中には入っていません。 - 仕事で広島に行ったとき、
川を見ると
「この川が人で埋まっていたんだな」と思ってしまったので、
遊びで行くことはできないと思いました。 - 広島と長崎の原爆資料館の展示を見るのは無理だと思っています。
サイパンにも行けないです。 - 宮古島の図書館で郷土史の本を読んだとき、
ちかくに2つのガマがあって、
逃げ込んだ人の中に英語のわかる人がいたほうの人々は
米軍と話して生き残って、
英語のわかる人のいなかったほうの人々は
全員玉砕されたというのがあって、心に残りました。 - ドキュメンタリー映画は「ひめゆり」が印象的でした。
- 学生のとき、姉妹校の中国の山東医学院に学生交流で行ったら、
ちょうど抗日の40周年でポスターがたくさん貼ってあって、
ドキドキしました。 - 学会でヨーロッパに行ったときには、
第2時世界大戦の記念碑みたいなものを見ると
一緒にいる日本人以外の人たちが、
日本がナチスと同盟していたことを思い出さなければいいなと
思いました。 - オランダでは、
現地の方が「アンネの家」を案内してくださって、
自分たちはアンネを守ったと誇らしげでしたが、
わたしは、そのときも心苦しかったです。 - 2〜3年前、そのときの勤め先の上司
(わたしより20歳下)に、
地元の病院が元陸軍病院だったことを話したら
「日本って軍隊持ってないですよね?
どこと戦争したんですか?
アメリカと一緒に戦ったんですか?」
と言われて、こんなに高学歴(医師)の方でも
日本とアメリカが戦争したことを知らない人もいるんだと、
びっくりしました。 - 思い出すままに書いてしまい、
整理されておらず、申し訳ありません。 - (かなえゆい)
2025-10-05-SUN

