糸井重里がこれまでにやってきた仕事には
いろんなジャンルがありますが、
やっぱり、いちばんの根っこには
コピーライターとしての経験が活きています。
「ほぼ日」の社内でもあまり語ってこなかった
自身の手がけた広告コピーについて、
糸井重里本人がたっぷり10本分を語りました。
訊き手は東京コピーライターズクラブの会長で、
糸井のコピー直撃世代でもある谷山雅計さん。
どんな状況でそのコピーが生まれたのかを、
なによりも大切にしたい糸井のコピー解説です。

※宣伝会議『アドバタイムズ』の企画記事を
「ほぼ日」編集バージョンでお届けします。

この対談の動画は 「ほぼ日の學校」でご覧いただけます。この対談の動画は後日「ほぼ日の學校」で
ご覧いただけます。

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(1)「僕の君は世界一。」その1

谷山
糸井さんとコピーの話をするっていうのは、
正直、ちょっと緊張するんです。
一応、東京コピーライターズクラブの会長なんで、
そんなこと言ってちゃいけないんですけど。
糸井
なにをいまさら(笑)。
谷山
広告関係の人っていうのはやっぱり、
糸井さんの前で緊張してしまうんですよ。
「わあっ、糸井さんだ!」ってなっちゃう。
ぼくは大学生の頃から
広告学校で糸井さんの授業を受けて
お世話になっていたというご縁もあるので、
まだ緊張しないほうだとは思うんです。
そういうこともあって、宣伝会議さんから
谷山を聞き手にすればいいんじゃないかって
依頼をされたんじゃないかなと。
糸井
うん、いい考えだよね。
谷山
そういうことで、糸井さんの書かれたコピーから
10本を選んでみたんですけど、
正直に言うと「自分だけが好き」みたいな
マニアックなチョイスはしませんでした。
糸井さんはもうずいぶん、
自分の書いた広告コピーについて
話されていないと思うので、
いわゆる代表作と呼ばれるコピーを中心に
選ばせていただきました。
糸井
自分が書いたコピーのことは、
もともとそんなにしゃべってないですよ。
谷山
でも『糸井重里全仕事(マドラ出版)』を
読み返してみると、
けっこう書いていらっしゃいますよ。

糸井
ああ、そうでしたか。
でもそれ、30年ぐらい前でしょ?
谷山
発売が1983年なんで、40年前ですね。
糸井
ああ、それはもう若気の至りだね。
谷山
いまの糸井さんと比べたら
コピーについて解説をしてらっしゃいますけど、
広告の仕事を辞めてからは
コピーの話をされるのをあまり聞いていません。
なので、これからご紹介する10本は、
多くのかたが知っていそうなものを中心に
時系列の順番で選んでみました。
ひょっとしたら、その当時に
もうたくさんしゃべったような
コピーも出てくるかもしれませんが。
糸井
大丈夫です、話したことは忘れてるから。
谷山
あら、忘れてますか。
それでは1個ずつ、いきましょう。

1981 僕の君は世界一。(パルコ)

谷山
パルコの「僕の君は世界一。」というコピー。
先ほど糸井さんは忘れちゃったと言っていた
『糸井重里全仕事』を読み返したときに、
当時の糸井さんはご自身で、
「これは、ぼく、すごく好きなコピーなの」と
おっしゃっていたんですよ。
ちなみにそのとき、ぼくはまだ大学生だったんです。
糸井
ああ、そうかあ。
谷山
ちょっとだけ説明をさせてもらいますと、
訊き手の谷山は、大学に入るために
1980年に大阪から東京に出てきて、
1984年に博報堂に入って、
そこからコピーライターになりました。
大学時代に糸井さんを知った、
まさに糸井さんのコピー直撃世代です。
糸井さんがいろいろな広告を作っていた中で
特に好きだとおっしゃっていたのがこのコピーで、
大学生のぼくは、そうなんだ! と
ちょっと驚いたところもあったんですよね。
まずはここからお話を聞きたいなと。
糸井
これ、ね。
ほら、まあいいじゃないですか(笑)。
谷山
「いいじゃないですか」ですか。
その当時はけっこう論理的に、
このコピーがなぜ気に入っているかを
説明してらっしゃいましたけど。
糸井
コピーそのものについての説明というか、
気持ちっていうことを言うなら、
「愛は主観です」ってことですよね。
谷山
愛は主観、そうですね。
糸井
それはみんなが心に持っていたらいい、
おまじないみたいなところもあります。
「自分にとってこの人は世界一だ」っていう、
客観的にあり得ないことを思える素晴らしさを、
このコピーでは言っているんです。
でもほんとはね、コピーっていうのは、
解説しなくてもいいのが一番なんです。
谷山
はい、それはわかります。
糸井
たとえばさ、俳句を作った後で
自分で解説する人はあんまりいませんよね。
それは他人が解説するものなんです。
その意味でも、コピーそのものを解説するよりも、
どうできたかっていうことを言いたいな。
このコピーが出ざるを得なかった経緯というか、
ある場所にはまったっていうことを覚えてるのは
ぼくしかいないわけだから、
それをしゃべったらおもしろいんじゃないかな。

谷山
当時のことを教えていただけるんですか。
糸井
ぼくがこのコピーを好きになった理由って、
コピーそのものじゃなくて、
状況の中にあったんだと思うんですよ。
このコピーを書くきっかけになったのは、
パルコの広告を川崎徹さんが
作ることになったというところなんです。
川崎さんは電通映画社にいて、
関西電通の仕事をずいぶんしてた人だから。
谷山
キンチョールですね。
糸井
それに、関西電気保安協会もね。
谷山
いまだにあの音楽、
大阪の人はみんな知ってますよ。
かんさい~でんき、ほ~あんきょ~かい♪
糸井
それってすごいことですよね。
関西電気保安協会のCMは
ナショナルブランドに思えないような
小さいサイズの仕事に見えるんだけど、
TCC賞に応募されてきた時に、
「これを作ってる人はすごい!」
と思って周りに伝えたんですよ。
その時代はまだ、
CMのジャンルの人とコピーライターが
合流してなかったんですよね。
谷山
昔は、グラフィックとCMで
作る人がパッと分かれてましたね。
糸井
だから、コピーライターの業界で
CMの人たちが考えていることを
「いいね」って言えるチャンスがなかったの。
川崎さんがそのCMを作っているって知って、
すごいなと思っていたんですよね。
サントリービールの「生樽」だとかで
その凄みがだんだんとみんなに伝わってきたんです。
アンダーグラウンドに見えた川崎さんの世界が、
ナショナルブランドのサントリーみたいな仕事で
ポン! と出てきて勢いがありました。
CMのコンテの言葉として書かれた言葉が、
「いかにも一般大衆が喜びそうな」っていう(笑)。
谷山
ああ、ありましたね。
糸井
そのセリフはコピーライターじゃなくて、
川崎さんが考えたものなんですよね。
いまだとコピーライターのクラブで、
CMを作る人たちが賞をもらってるだろうけど、
その褒められる対象になったのは、
関西電気保安協会の頃からじゃないかな。
で、CMの持っているパワーに
コピーが対抗し得るかっていうと‥‥、
コピーライターとしては、対抗しきれないな。
谷山
え、糸井さんでもそう思うんですか?
糸井
「糸井さんでも」って言うけどさあ、
だって、みんなはテレビを見て、
そこで語られている言葉とか、
そこで使われてる言葉を覚えるわけでしょう?
みんなが「いいね」っていうのもCMなわけで、
ぼくらは新聞広告とか雑誌広告とか、
キャンペーン全体のテレビ広告の最後の一行とか、
ナレーションのちょっとだけとか、
コピーだけで関わっていたわけですよ。
全部まるごとで広告を作っている方が
おもしろいに決まっているんです。
ぼくはこの頃まで、
川崎さんっていう人を知らなかったけど、
いつか会うんだろうなあとは思っていました。
谷山
まだお知り合いじゃなかったんですね。
糸井
伝説だけはちらっと聞こえてくるわけです。
あまり笑わないとか、そういう話だけ。
谷山くんはまだ大学生だから知らないわけでしょ?
谷山
いえ、ぼくは学生の時に、
広告批評でバイトをしていたんで、
糸井さんも来られるし、
川崎さんもよくいらしていました。
おふたりはずっと前からの
知り合いだと思っていたんですが、
そうじゃなかったんですね。
昔からの盟友みたいな感じで
話していらっしゃったから。
糸井
うん、そうなんだよ。
そんな状態で川崎さんが
パルコの仕事をやることになって、
コピー書いてほしいって頼まれたんです。
谷山
それが「僕の君は世界一。」になったんですね。

(次回は『僕の君は世界一。』が
どう生まれたかのお話です)

2024-10-11-FRI

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