元気な男の子ふたりを育てる
シングルマザーのなおぽんさん。
ふだんは都内ではたらく会社員ですが、
はじめてnoteに書いた文章が話題になり、
SNSでもじわじわとファンを増やしています。
このたび月1回ほどのペースで、
子どものことや日々の生活のことなど、
なおぽんさんがいま書きたいことを、
ちいさな読みものにして
ほぼ日に届けてくれることになりました。
東京で暮らす親子3人の物語。
どうぞ、あたたかく見守ってください。
石野奈央(いしの・なお)
1980年東京生まれ。
都内ではたらく会社員。
かっこつけでやさしい長男(11歳)と、
自由で食いしん坊な次男(7歳)と暮らす。
はじめてnoteに投稿した記事が人気となり、
SNSを中心に執筆活動をはじめる。
好きなものは、お酒とフォートナイト。
元アスリートという肩書を持つ。
note:なおぽん(https://note.com/nao_p_on)
Twitter:@nao_p_on(https://twitter.com/nao_p_on)
今年の春はひんやりしていた。
3月、桜がいっせいに咲いた翌日から雨がふり、
花見日和にはならなかった。
4月、次男の入学やらバタバタと、
季節の移り変わりを感じる余裕もなく時間は過ぎた。
5月になっても朝晩は冷えこみ、
息子たちは毛布にくるまっていた。
そんな今年の春。
祖母が亡くなった。
息子ふたりは、ひいばあ、と呼んでいた。
享年92。
もしこの5月をむかえていたら
93歳という大往生だった。
その朝、長男はひいばあと話した。
おはようと声をかけると、元気に返事をしたという。
朝食をとり、送迎のバスでデイケアに向かった。
昼に風呂にはいり、
すこし疲れたので休みますねと横になったそうだ。
そのまま眠るように、祖母は旅立った。
仕事をしていると、夕方、母からLINEがきた。
「ひいばあが亡くなりました」
それは一昨年、愛猫が亡くなったときの知らせに
そっくりの文面だったから、ひどい冗談だと思った。
祖母は、とにかく元気だった。
89歳までひとりで暮らし、
屋上の補修を自分でしてしまうほど、
なんでもできる人だった。
祖母はいつも若々しく、オシャレだった。
髪は美しく深い赤みのある黒色で、
月に2回も美容院で染めていた。
それでも、歳とともにモノ忘れはひどくなった。
数年前、勤務先が近所だったころには、
昼休みに会社をぬけだし、
商店街で弁当をふたつ買って、昼は毎日祖母と食べた。
祖母はいつも「久しぶりだね、なおちゃん」と
ニッコリ笑った。
ずっとひとりでやってきたプライドから、
介護認定調査員の前ではがんばってしまう。
思うように介護認定がとれず、
介護する父母は困っていた。
デイケアに通い始めてからも、
いつも着飾ってアクセサリーをジャラジャラつけては、
母が職員から注意をうけたそうだ。
祖母はきっと120歳くらいまでは生きる。
70歳を超えた父母は、
自分たちの方が先にお迎えがくるといつも心配していた。
わたしも、そんな気がしていた。
そんな鉄人の祖母も徐々に、
家で横になる時間がふえた。
「ひいばあが またねてるー」と次男が大声で起こすと、
しばらくは身体をおこしてつきあうが、また横になる。
迷惑にならないようにと、
息子たちを近づかせないようにするうち、
わたしが祖母と話す時間も減ってしまった。
美容院通いはむずかしくなり、
髪色は真っ白になっていた。
それでも、すっと背すじをのばし近所をあるく佇まいは、
遠くからでも祖母とわかるほど美しかった。
「いつかくるその日」は、
まだ先のことだと思っていた。
家に帰り、入学式のために用意していた
兄弟のスーツを予定より早く押し入れから出して、
ハンガーにかけた。
すれ違いやタイミングの悪さが重なり、
次に祖母に会えたのは
亡くなった翌々日の通夜だった。
通夜につくなり受付をまかされ、
祖母の顔をみるどころか、
焼香さえ参列者のいちばん最後になった。
やっとの思いで棺をのぞくと、
窓にビニールシートがかけてあって、
よく顔が見えない。
きちんと対面もできず、
心にわだかまりを残したまま時間は過ぎ、
告別式を迎えた。
閉式の宣言が終わると、
式場の人が盆いっぱいに花をもち
「顔のまわりに入れてください」と、渡された。
これが本当に最後だと思ったとき、
私は、そっと祖母の顔にふれた。
とてもとても冷たくて驚いた。
さわっているうちに、冷たさがやわらいだ。
さわりながら、
生前こうして祖母の顔にふれることなんてなかったな、
と思った。
何度も何度も、額を、ほおを、なでた。
それをみて、長男はあとずさった。
私もそうだった。
高校生のときに亡くなった母方の祖母にも、
三十の頃に亡くなった父方の祖父にも、
なぜかふれられなかった。
次男は「ぼくも いいこいいこ していい?」と聞いた。
かまわないよ、と手を支えると、
すこしふれたあと手のにおいをかいだ。
周囲からクスクスと声がこぼれ、
みんなが笑いながら泣いた。
悲しもうと、笑おうと、故人はもういない。
あとは、生きる人しか残らない。
頭ではそうわかっていても、
後悔が次々におそいかかってきた。
なぜ、祖母ともっと話さなかったのか。
あの朝、おはようと声をかけなかったのか。
そのとき、長男がひとこと言った。
「ひいばあの心臓は、20億回うったんだね」
動物の心臓は約20億回の鼓動で寿命を迎えるという。
本川達雄氏が『ゾウの時間 ネズミの時間』で唱えた説だ。
思春期は戦争の時代だった。
奉公に出された。
結婚した。
商売が繁盛した。
息子ふたりにめぐまれた。
孫が生まれた。
夫を見送った。
ひ孫が生まれた。
米寿も卒寿も皆で祝った。
そして、祖母の心臓は、
しずかに、おだやかに、最後の一拍をうった。
ひとつの人生で経験しうるほとんどのものを経験し、
生涯を終えた。
祖母は人生を生ききったのだ。
5月なのにまだ肌寒さの残るある日に、
祖母の納骨をした。
自宅から自転車で10分かからない場所にお寺がある。
本堂での四十九日の法要が終わると、墓前に移動し、
石屋さんがお墓の下の部分にある納骨室を開けた。
そして、真っ白な祖母の骨壺をそっと中におさめた。
納骨室には14年前に亡くなった祖父の骨壺があり、
ひさしぶりに祖父の横に祖母が並んだ。
祖父は全盲だった。
生前、祖父と祖母はいつも一緒にいた。
祖父が亡くなり、ひとりになったとき、
祖母は寂しそうにはみえなかった。
それでも、ふたりが並ぶと幸せそうにみえて、
わたしは嬉しかった。
すこしだけ気がかりなことがある。
晩年、ひ孫たちと暮らした日々は、
祖母にとってしあわせだったのだろうか。
認知症になって送る日々を、
祖母はどう感じていたのだろうか。
それは誰にもわからない。
祖母自身にも、
もうわからなかったのかもしれない。
いつか、わたしが同じ体験をするときがくれば、
そのとき、祖母のきもちをわかるのかもしれない。
法事のあいだ学童保育室に
預けておいた息子たちを迎えに行った。
「あーあ、僕もひいばあのお墓にいきたかったのに」
とふたりがグチる。
いつだって会いにいけるよ、
と自転車の前と後ろに彼らを乗せ走った。
夕方はだいぶ明るくなった。
雲がいきおいよく空を流れていた。
イラスト:まりげ
2023-05-26-FRI