元気な男の子ふたりを育てる
シングルマザーのなおぽんさん。
ふだんは都内ではたらく会社員ですが、
はじめてnoteに書いた文章が話題になり、
SNSでもじわじわとファンを増やしています。
このたび月1回ほどのペースで、
子どものことや日々の生活のことなど、
なおぽんさんがいま書きたいことを、
ちいさな読みものにして
ほぼ日に届けてくれることになりました。
東京で暮らす親子3人の物語。
どうぞ、あたたかく見守ってください。

>石野奈央(なおぽん)さんのプロフィール

石野奈央(いしの・なお)

1980年東京生まれ。
都内ではたらく会社員。
かっこつけでやさしい長男(11歳)と、
自由で食いしん坊な次男(7歳)と暮らす。
はじめてnoteに投稿した記事が人気となり、
SNSを中心に執筆活動をはじめる。
好きなものは、お酒とフォートナイト。
元アスリートという肩書を持つ。

note:なおぽん(https://note.com/nao_p_on
Twitter:@nao_p_on(https://twitter.com/nao_p_on

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まなべよあそべ蝶々博士

「アサギマダラは渡りチョウだよ」

息子たちから渡り鳥ならぬ
「渡りチョウ」がいると聞いて驚いた。
そして、小学生の国語の授業を思い出した。

てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった  
出典:安西冬衛「春」(『軍艦茉莉』より)

詩のチョウはきっとアサギマダラのことだ。
彼らは季節を追って、
あの薄い布きれのような頼りない身体で、
実に2000キロメートルほども
大移動して海を越える。

肌寒い日が続いていたが、突然夏の陽気に変わった。
虫採りの季節の到来だ。
草がうっそうと茂る荒川土手の野球場は、
昆虫たちも豊かに暮らしている。
次男は、白いボールを追ったり、
モンシロチョウを追ったりと忙しい。
昆虫マニア兄弟の次男が最も好きなのはチョウだ。

次男がチョウの虜になったのは、
「鱗粉転写」がきっかけだった。
はじめてチョウを捕まえたとき、
翅の鱗粉が版画のように手についたのだ。
模様の美しさと不思議さに心を奪われ、
図鑑をみて様々なチョウの絵を描くようになった。
彼は時間をかけて、色鮮やかに模様の細部まで描き込む。
「でも本当に美しいのは、
飛んでいるときのチョウなんだよ。
それは絵には描けないけど」と空を見上げる。

自転車で行ける区の生物園には、
息子たちのお気に入りの「大温室」がある。
野球少年団に所属する以前は、
休日になればたいてい電車博物館か、この大温室にいた。

温室内には人工の池もあって、鯉もいればアロワナもいる。
湿度と気温と独特の生物臭がムンと立ち込めていて
亜熱帯感が強い。
その中を無数のチョウが舞っている様子は、
大人でも見応えがある。
冬場は暖かくて過ごしやすいスポット、夏場はサウナだ。
そこに何時間もいるのだから、つき添いは苦行である。

野外にも十分に昆虫がいる夏、
さらに暑い温室にわざわざ行くのには理由がある。
大温室には、希少な品種のチョウがいるのだ。

東京ではなかなか見かけないオオゴマダラは、
日本国内最大級のチョウで、
顔の横を通りすぎると風を感じるほどだ。
優雅に舞う姿に思わず見とれていると、
「オオゴマダラの注目すべきは、黄金のサナギです」
と次男がつけくわえる。

「こんなところにいたのかあ!」と
次男がかけよった先には、シジミチョウがいた。
そこら中にいるじゃない、と声をかけると
「全然ちがう!」と怒られた。
「ツシマウラボシシジミは絶滅危惧種なんだよ!」と
熱弁する次男。
気づいた飼育員が近よってきて
「よく知っているね」と褒められた。
次男はチョウをじっと見る体勢から振り向きもせず
「静かにしてください。この子が驚きますから」と言った。

温室育ちのチョウたちは人懐っこくよってきて、
ときには肩や手にとまる。
温室内はもちろん虫採り厳禁。
虫除けスプレーをした身体で入室することも禁止している。
害虫以外の虫にも良くないらしい。
同じ理由で近くの公園に行くときも、
兄弟は虫除けスプレーの使用を嫌う。
とことん生物目線の息子たち。
その横で、身体の感覚も視力もだいぶ弱っている母は、
蚊に刺されたい放題である。
ときどきは、母目線のいたわりもほしい。

温室内で、
次男はひたすら何かをぶつぶつとしゃべっている。
本や図鑑で仕入れた知識を確認しているらしい。
多くの人は彼からすこし距離をとって通り過ぎていく。
そこへ、ひとりのご婦人が話しかけてきた。

「あなた、ずいぶん詳しいわね」

小柄なご婦人は探検家のような帽子をかぶり、
牛乳瓶の底のようなメガネをしていて、
60代から70代くらいの容姿。
首からものすごく大きな一眼レフカメラを下げていた。

「このチョウの名前はわかる?」

試すように話しかけられた次男は、
「それはナガサキアゲハのオスですよ」と答えた。
ご婦人の目の色が変わった。
ふたりはチョウトークで盛り上がり始めた。

「今日はアサギマダラの写真を撮りにきたのだけど、
うまく見つけられなくて」
「ここはリュウキュウアサギマダラが多いですよね」

温室内にはチョウ案内の写真つき看板が立っている。
しかし、見たところで差はわからない。
わたしは、チョウよりも世代を超えて意気投合する
ふたりの成り行きを観察していた。
突然、次男が話をさえぎって
「アサギマダラだ!」と叫んだ。
ふたりは猛スピードで視線の方向にかけ出した。

見失うとその場でチョウ談義が再開する。
そしてまた次男が目ざとく見つけて
「アサギマダラだ!」と叫ぶたび、
ふたりはダッとかけていった。
ご婦人が楽しそうに汗をかく姿に、
次男もそのまま大人になる予感がした。

長男が小さかったころは葛西臨海水族園に足繁く通った。
広大な臨海公園の中ほどにあって、館内の規模も大きい。
直接生物に触れるなど、
幼児の心をくすぐるコーナーもたくさんある。
長男の狙いはただひとつ「マグロ水槽」だった。
天井までひろがる大きな筒状の水槽を回遊するマグロたち。
長男はじっと動きもせずに、様子を眺めていた。

静の兄、動の弟。
長男は、チョウを追ってかけまわる次男とすこし離れて、
木の枝に擬態したナナフシをじっと見つめていた。
昆虫の楽しみ方もそれぞれである。

温室を出たところには小さな売店がある。
そこで、冷たいジュースと500円もするガチャガチャを
回すのはお決まりのコースだ。
本物と見間違うようなクオリティの
「いきもの大図鑑シリーズ」フィギュアを手に入れて、
男児たちは収集欲を満たす。
冷房の効いた空間でひと息つくと、
2セット目が待っている。
わたしは次男に引きずられるように、もう一度温室へ入る。

大温室を堪能したあとは、
館外の公園でリアル虫採りが待っている。
先ほどまで手が出せなかったチョウたちを、
思う存分にキャッチアンドリリースするのだ。
やはり男児は狩猟好きである。

「マレーシアに行きたい」

次男から、日光に行くかのように
クアラルンプール旅行を提案された。
鬼怒川と違ってパスポートが必要なんだよ、
と説明したが理解していない様子だった。
彼の狙いは「バタフライパーク」だそうだ。

「本当はパプアニューギニアがいいんだけど」

彼の頭の中の地球は、手のりのアースボールだ。
パプアニューギニアには世界最大のチョウ
「アレキサンドラトリバネアゲハ」がいるという。
私に説明しながら目が宙を泳いだかと思うと、
バッとらくがき帳を広げ、夢のチョウを描き始めた。
もう私の声は聞こえない。

自由に飛びまわるチョウの姿は、次男に重なる。
一見頼りなさそうでも、パワーがある。
彼はいつか気が向くままに、
本当にどこか海の向こうへ渡っていくのかもしれない。

わたしはその時に「いっておいで」と、
笑顔で背中を押してあげられるだろうか。

「僕はね、ダイガクにいって
チョウをたくさん研究するんだ。
そして、ロサンゼルスにいってドジャースに入団するの」

次男の夢は一人、ひらひらと舞いながら、
太平洋を渡っていく。

イラスト:まりげ

2024-04-26-FRI

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