
おもしろいゲームには、
たくさんのアイデアと多くの技術、
さまざまなテクノロジーが取り入れられています。
『MOTHER2 ギーグの逆襲』のなかにも、
多くの人たちのアイデアや努力がたくさん詰まってます。
そのゲーム開発の現場の中心人物のひとりが、
ゲームデザインを担当した
「三浦兄」こと、三浦明彦さんです。
『MOTHER2』はどのようにして生まれたのか。
これまで知られていなかった『MOTHER2』の
開発エピソードをたっぷりと語っていただきました。
三浦明彦(みうら・あきひこ)
ゲームデザイナー。明治学院大学非常勤講師。
宇都宮大学入学と同時にゲームソフト輸入、販売、開発会社に入社。
黎明期の北米ビデオゲームを学ぶ。
セディック、エイプでゲームソフト、テレビ番組、書籍を制作。
クリーチャーズ、ポケモンで『ポケモンカードゲーム』などを手掛ける。
ジニアス・ソノリティの設立に加わり、
2011年よりミウラアニ・アンド・アソシエイツとして、
『Pokémon Trading Card Game Pocket』など
さまざまなゲーム開発に関わっている。
『MOTHER』シリーズ関係者からは
「三浦兄(みうらあに)」と呼ばれる。
- ──
- これまで『MOTHER2』の開発に関わった
さまざまな方に取材してきたのですが、
じつは、開発の軸を担うおひとりである
三浦さんにお話をうかがうのははじめてで。
- 三浦
- そうなんですよね。
- ──
- やっとお会いできてうれしいです。
今日はよろしくお願いいたします。
三浦さんは『MOTHER2』では
ゲームデザインを担当されていたんですよね。
- 三浦
- はい。ゲームデザイン全般ですね。
- ──
- そもそも『MOTHER2』に関わったのは、
どういう経緯だったのでしょうか。
- 三浦
- いちばん最初からお話しすると、
1980年代、パソコン黎明期のころ、
自分は学生だったんですけど、
趣味でパソコンのゲームをつくっていたんです。
で、大学受験で上京したら、
ゲーム会社にスカウトされまして。
受験の前に就職を決めてしまった(笑)。
- ──
- 受験の前に(笑)。
- 三浦
- それ以来ずっとゲーム業界にいたんです。
そうしたらあるとき、
「おもしろい人たちがいるから、
ちょっとのぞきにいってみないか」と誘われて。
そこで出会ったのが、
セディックのプロデューサーの石原恒和さん
(現・株式会社ポケモン代表取締役)でした。
- ──
- セディックは『MOTHER2』の初期の開発会社ですね。
セディックのスタッフがエイプに移籍して、
『MOTHER2』の開発を進めることになった。
- 三浦
- はい。石原さんはそのころ、
メディアアーティストの岩井俊雄さんが
卒業制作でつくったゲームを
商品化しようとしていたんです。
それを自分が手伝うことになって、
そこからセディックに入り浸るようになったんです。
- ──
- そのゲームはひょっとして‥‥。
- 三浦
- ファミコンのディスクシステム用のゲーム
『オトッキー』として発売されました。
- ──
- 『オトッキー』。
敵を撃つと音が鳴る、
音楽ゲームのはしりとなった一作です。
- 三浦
- 石原さんは当時、
「いま一番おもしろいクリエイティブは
ビデオゲームだ」とおっしゃっていて、
そのことばに共鳴する人たちが
セディックに梁山泊のように集まっていました。
岩井俊雄さんをはじめ、
森川幸人さん(代表作『がんばれ森川君2号』)や
田尻智さん(代表作『ポケットモンスター』)
といった人たちがいて。
自分はそこで海外のゲームの話をして、
みんなと盛り上がっていたんです。
- ──
- 海外のゲームにお詳しかったんですか。
- 三浦
- 最初に勤めていたゲーム会社では、
海外のゲームを輸入販売していて、
日本語版に移植する仕事もしていたので、
海外のゲームに触れる機会が多かったんです。
アスキーの『ログイン』という雑誌が創刊するときに
『ウィザードリィ』について自分が取材を受けたり、
『週刊少年ジャンプ』からアップルIIについての
取材を受けたりすることがありまして。
取材に来てくださった堀井雄二さん
(代表作『ドラゴンクエスト』)と
お会いしたこともありました。
- ──
- 堀井雄二さんが取材する側で!
それは『ドラゴンクエスト』以前ですよね?
- 三浦
- そうです。フリーライター時代の
堀井さんの名刺をいただいて。
- ──
- すごい(笑)。
- 三浦
- 当時、海外ゲームのことはみんな知りたがっていて。
ぼくも取材を受けることがとても多くなったので、
本にまとめて出すことにしたんです。
そしたらそれを石原さんがおもしろがってくれて、
「やるなら徹底的にやろう」ということで、
ペヨトル工房の今野裕一さんに協力をしていただき、
ライターとして田尻さんや森川さんにも参加してもらい、
自分が知っているテレビゲームの
歴史と情報を詰め込んだ一冊をつくったんです。
それが『電視遊戯大全』(1987年・UPU刊)です。
- ──
- 『電視遊戯大全』、伝説的な名著ですね。
『MOTHER2』の前にそんなクリエイティブが。
- 三浦
- 長くなってすみません。
その本を出したときに、いろいろな
ゲーム関係の人と知り合うことができたんです。
その中には糸井重里さんもいらして、
その後、糸井さんと石原さんは
『糸井重里の電視遊戯大展覧会』
というテレビの深夜番組をつくるんです。
それが『MOTHER2』につながっているところが
あるのかなと思っています。
- ──
- そういう関係があっての『MOTHER2』だったんですね。
- 三浦
- 『電視遊戯大全』のあと、
オリジナルのゲームの企画を大山功一さん
(のちの『MOTHER2』アートディレクター)と
いっしょに進めていたんです。そんなときに
「セディックで『MOTHER2』を
つくるから手伝ってくれないか」
と言われてチームに加わることになったんです。
- ──
- 声をかけられたときは、
すでに『MOTHER 2』の開発がはじまっていたんですか。
- 三浦
- 企画会議がはじまっているところでした。
大山さんは自分よりも早く、
『MOTHER2』のアートディレクターとして、
ドット絵やグラフィック全般を
すでに担当することになっていたと思います。
ですから、『MOTHER2』では
大山さんがグラフィック全般を担当して、
自分がゲームデザイン全般。
そこから人がどんどん増えていくという感じでしたね。
- ──
- その時点で『MOTHER2』は
どのくらいできていたのでしょうか?
- 三浦
- まだまったく何もない状態でした。
- ──
- 三浦さんの最初の具体的なお仕事は
どういうものだったのでしょう。
- 三浦
- 最初に、糸井さんがA3ぐらいの紙に
手描きで町ごとのコンセプトを書いて。
その町で何が起きるかを書き出していったんです。
糸井さんを含め、みんなでそれを見て、
ゲームに落とし込むには
どうしたらいいのかを話し合っていきました。
「こうしたらおもしろいんじゃないか?」と
ワイワイ話し合うような感じで、
学生の部活のような空気でしたね。
まずそれを仕様書に落とし込んでいくのが
ぼくの最初の仕事でしたね。
- ──
- 展覧会「MOTHER2のひみつ。」のときに、
仕様書の一部が公開されていましたが、
すごく細かく書き込まれていましたね。
- 三浦
- いや、みなさんそうおっしゃってくれるんですけど、
ちょっと違うんです。
それしかやる仕事がなかったんですよ。
- ──
- というと?
- 三浦
- 『MOTHER2』はスーパーファミコンという
当時の最新鋭のハードウェア用につくっていて、
まず、そこで動かすための
基本のプログラムが進められていたんです。
ところが、なかなかそれが上がってこなかった。
仕方がないので、とりあえずマップを描いたり、
登場人物のセリフを整理したり、
ステータス異常の仕様をつくったりしてたんです。
キノコ状態とか、風邪とか、日射病とか。
それも、基本プログラムの完成を待っていたから。
- ──
- ああ、なるほど。ほかの開発者の方に
お話をうかがったときにも感じたのですが、
『MOTHER2』の豊かさは、そういった
「開発が進んでない時間」に
結果的に熟成されていることが背景にありますよね。
- 三浦
- ああ、そうですね。
で、糸井さんはゲームの専門家ではないから、
開発が進んでいないときも、
「こういう世界がつくりたい」
「こういうやつを出したい」とか
いろいろおっしゃるので、それをまた
ひとつひとつ仕様書にまとめたりしていました。
なにしろ、それしかやる仕事がなかったので。
- ──
- じゃあ、プログラムが動いてない状態で、
「こうなるはず」という感じで、
仕様を細かく決めていっているような。
- 三浦
- そうです、そうです。
もちろん、自分ひとりで決めてるわけじゃなくて、
みんなで話し合って、
「こうしたほうがおもしろい」と
決めていくような感じで。
- ──
- 基本プログラムができてないのに、
仕様書のなかでゲームができていく。
- 三浦
- そうです。
(つづきます)
2026-08-27-THU
