ほぼ日の奥野武範はたくさんのインタビューをこなす。
年間数十本。その対象はじつにさまざまだ。
著名なクリエイター、街の職人、ベテラン俳優、
憧れのロックスター、古い友だち、投稿者、
恩師、カメラマン、社長、学者、などなど‥‥。
それだけインタビューを重ねていけば、
当然「こぼれ話」もある、はず。いや、ある、と思う。
歯切れが悪いのは、奥野が自分からは語らないからだ。
ところが「あの取材、どうだった?」などと聞くと、
彼はそこで起こった興味深いエピソードを普通に語る。
なんだ、あるじゃないか、こぼれ話。もっと教えてよ。
それで、こんな場所をこしらえることにした。
奥野武範がインタビューのサイドストーリーを語る場所。
それが「奥野武範のインタビューノート」である。
こういう場所をつくれば、彼の性質上、きっと語るはず。
なにか書かれるのを、みんなでのんびり待ちましょう。
イラスト:和田ラヂヲ 巻頭言:永田泰大
古矢徹さんが亡くなった。VOW総本部(=編集部)の2代目総本部長として、長きにわたりVOWをつくり続けてきた人だ。闘病していたことは知っていたけど、あまりに突然のお別れだった。世界にデッカい穴ボコが空いた。街のヘンなモノたちも、ガックリ肩を落としている。
もう30年以上も前、まだ群馬の田舎の山の奥に住んでいたころ。ときどき街場へ下りては本屋やコンビニでVOWを立ち読みした。文字通り「読み漁って」いた。最初の出会いは、小学5年生とか6年生くらいだったと思う。渡辺祐さんが初代総本部長を務めてらっしゃったころだ。まだ子どもで、意味のわかんないネタもチラホラあった。でも「おもしろいって、きっと、こういうことなんだ!」と食らいつくように読んでいた。編集者という呑気な(?)仕事があるよと教えてくれたのも、VOWだった。人生いろいろタイヘンだけど、愉快にしてたらどうにかなるよね。そんな大人になりたいと思った。そう思わせてくれたのは、まぎれもなくVOWだった。
世代的に、自分にとっての「VOW」とは「古矢徹」とイコールである。両者は不可分だ。とくに『VOW5』から『VOW13』あたりにかけてのおもしろさは空前絶後。そんな「奇跡の書」を製作総指揮していたのが、2代目総本部長なのである。読者の投稿にナイスなコメントをつける。それが総本部長職の最重要任務であるが、2代目総本部長の筆さばきひとつで、投稿が俄然おもしろくなったりした。それは中速くらいのツッコミであり、ボケに重ねたボケである。だいたいふざけているけど、たまにはまじめ。ぼくの愛したVOWのスタイルは、2代目総本部長が数十年かけて築き上げた様式といっても過言ではない。そんなヒロシじゃなかったトオルに魅せられて(騙されて?)、気づけばいつしか、将来はVOW総本部へ入れてもらおうと決めていた。実際それから10数年後の就職活動では、宝島社一社に狙いを定めた。「念」が通じたのか「運」がよかったのか、試験には合格した。ただ、宝島社の社内にVOW総本部はなかった。それは「外注」だったのだ! いつだったか、このことを総本部長に話したら「めずらしい青春だなあ」と笑っていた。
病気のことを知ったのは、今年(2024年)の2月。何かのメールに、ついでのように「いま、病気で治療中なんだよね」とあった。そこには具体的な病名や治療の現状なども、あくまでさらりとした筆致で書かれていた。つきあいの長い宝島社の人たちには、まだ打ち明けていないという。とくにヤブちゃん(担当編集者の藪下秀樹氏)に伝えたら、きっと心配しすぎてもっとハゲるから内緒にしておいてほしい、とあった。その点ぼくは総本部長と何度かしかお会いたことがなく、仕事上のつきあいもなかった(本を出したら送っていたし、他愛のないメールもたびたび交わしていたが)。そんな「適度に遠い人」だったからこそ、何となく、打ち明けてくれる気になったのかもしれない。
それにしたって、ショックであった。VOWの定番ネタに「シャウトねえちゃん」ってあるけど、あんなもんじゃなかった。いくら何でも気が早すぎるのだが「2代目総本部長が死んでしまう!」と真剣に焦った。いてもたってもいられなくなり、あまり深く考えないまま「ほぼ日で連載しませんか?」というメールを送った。総本部長の置かれた状況も考えず、自分の気持ちの先走りだけで送ってしまった。「テーマは何でもいいです、更新も不定期でいいです。エッセイでも、日記でも、コントでも、VOWみたいな何かでも‥‥」と、編集者にあるまじき乱暴さで。
そんなこんなではじまったのが、不定期連載「丸腰人を探して」である。いまや絶滅寸前の「丸腰人=スマホもケータイも持っていない人」を探しにいこうという珍企画。他ならぬ総本部長自身が「丸腰人」であり、昨今の自前スマホで注文するタイプのお店では、メニューを前に手も足も出ないという。同じような目に遭っている仲間を探し出し、その愛すべき「悲喜こもごも」を聞いてまわろうという趣向。スマホもケータイも持ってない人なんて、現代日本では「絶滅寸前」だ。何のリアクションもなかったらどうしよう、それはそれでまあいっかなんて話していたのに。フタを開けたら、全国の読者からたくさんの投稿が寄せられた。丸腰人の目撃情報、生態観察。ちょっと忘れられないようなエピソードも届いた。ゆっくりかもしれないが、着実に更新していける企画だと感服した。
そんな矢先の、夏真っ盛りのころ。総本部長から久しぶりにメールが届いた。簡単な用件のあとに「今日はこれから取材で地方なんだよね」とあった。どうやら、何泊もしてくる予定らしい。なあんだ、総本部長。すっかり元気じゃないですか。そう思って安堵した。いろいろ立て込んでいたこともあり、丸腰人の更新予定日を少しだけ先に伸ばした。それからほどなく、総本部長は亡くなった。あとから聞けば、その地方取材もかなりの強行軍だったらしい。行きは新幹線に乗っていったが、帰りは現地から直接タクシーで帰ってきたという。取材記事は、満身創痍の状態で書き上げ見事に入稿を果たしたという。そして、その記事を校了することなく、総本部長は、旅立ってしまわれたという。最後まで、気高い編集者だったと思う。そして最後まで、丸腰だった。
数日後。宝島社のヤブさんと訪れた総本部長の仕事場は、本とレコードであふれかえっていた。あの煌めきのコメント芸はここで磨かれていたのか。つまり、ここが「総本部」なんだ。自分は、ここに入りたかったんだな。ありがとうございます、という言葉しか浮かんでこなかった。いま自分はここにはいないけど、別のところで編集者をやっている。ここで、世にもおかしなコメントを書いていた人のおかげで、編集者をやっている。総本部長にしてみたら、まだまだヒヨッコの未熟者かもしれないけど。
総本部からの帰り道、ヤブさんが「いきなりステーキ行かない?」と声をかけてきた。いきなりだった。はじめてのいきなりステーキ。ステーキは、そこまでいきなりは出てこなかった。お店の隅っこの2名席に並び、ふたりで黙ってステーキを食べた。何とも言えない時間が流れていく中、ふいにヤブさんが語りはじめた。担当編集者として、自分は、もう40年も続いてきたVOWの火を絶やしたくない、そんなことは古矢さんも望んではいないと思う‥‥と。そして、お別れしたばかりでこんなことを言うのも嫌だけど、三代目の総本部長ってどうしたらいいだろうね‥‥と。ぼくだってVOWがなくなるなんて耐えられないから、思いつく限りの名前を挙げた。あの人だったらどうなるかなあ、この人だったらこうおもしろいかも。しばらく黙って聞いていたヤブさんだが、あるところで遮るようにこう言った。「あのさ、奥野さんがやってくれない?」
自分は、もう20年以上も前、古矢徹という人の筆にあこがれて、VOWの仲間に入れてほしくて、いちどは宝島社に入社した人間だ。だからまずは、びっくりしたとかうれしいとかじゃなく「自分には決して務まらない」と思った。それでも一晩真剣に考え、次の日の朝一番でヤブさんにお返事した。「自分に務まるのならば、ぜひ、やらせてください。いきなりステーキごちそうさまでした」と。もちろん自分に務まるかどうかなんて、わからない。自信のサイズはミジンコ以下だ。ただ、総本部長の盟友として長らくVOWを担当してきた編集者の判断を信じようと思った。「こいつならやれるかも」という判断を。
丸腰人の連載がはじまったとき、現在は女性ファッション誌『sweet』に掲載されているVOWの誌面に、総本部長がこう書いてくれた。「生まれてこのかたずっと丸腰人のワタクシが、立派な社会人ではあるけれど『スマホを海に投げ捨てたい』願望を持つ売れっ子編集者と、仲間を探す旅に出る」うれしかった。「売れっ子」という部分に対してではない。ただただドタバタしているだけで、別に売れっ子でも何でもない。うれしかったのは、もちろん、総本部長が「編集者」と書いてくれたこと。ぼくを、ひとりの編集者として認めてくれたこと。そのことが震えるほどうれしかった。「編集者という愉快な仕事があるよ、きみもやってみれば?」ってそそのかしてくれたのは、30年前の2代目総本部長、あなただったんだ。あのときの群馬の田舎の山の奥の子は、あなたのおかげで、こうして編集者になったのです。
古矢徹さんの御冥福を、お祈りします。3代目、はりきってやりますね。天国のゴールデン街から見守っててください。
(つづきます)
2024-12-13-FRI