以前、「ほぼ日」が特集で取り組んだ、伊丹十三さん。
糸井重里が第1回伊丹十三賞をいただいたこともあって、
愛媛県松山市にある、伊丹十三記念館さんとは、
折にふれてお付き合いをしています。
その記念館さんから、常設展の他に行っている、
長めのスパンでひとつのテーマを展示する「企画展」が、
新しくなりました、とお知らせをいただいていました。
それは、伊丹十三さんの生涯を語るとき、
決してふれずにはおられない、
父・伊丹万作さんをとりあげた企画展ということでした。
松山で生まれ育ち、挿絵画家、映画監督、随筆家として
それぞれ名の知られる仕事をされた伊丹万作さんは、
松山の人から愛されていました。
伊丹十三記念館は、もともと伊丹十三さんが、
伊丹万作記念館を作る場所として、考えていたそうです。
「ほぼ日」の伊丹十三特集でも、
何度かお父さんについてふれています。
多才であり、それぞれ一流の仕事を残しながら、
その時代の風潮に迎合することのなかった
万作さんの生涯は、
結果的に、伊丹十三さんの生き方とそっくりでした。
しかし、万作さんは、伊丹さんが13歳の時、
46歳という若さで亡くなっています。
万作さんが、短い生涯の中で成したことの大きさを見る
絶好の機会であり、
「万作と十三」父子のありかたを知ることのできる
この企画展に、先日うかがってきましたので、
ご紹介いたします。
常設展示を抜けて企画展示の入口に来ると、
伊丹十三さんによる万作さんについての
ことばが映写されたカーテンがかかっています。
展示は、5つのコーナーに分かれています。
(1)松山の人・池内義豊
1900年、伊丹万作(本名:池内義豊)さんは
愛媛県松山市で生まれました。
このコーナーでは書簡や写真から、
万作さんの才気あふれる青年時代をうかがえます。
最近ドラマ化されて話題の
『坂の上の雲』の登場人物、秋山兄弟や正岡子規、
さらに松山に縁の深い夏目漱石などもふくめ、
多くの有名人を輩出した土地柄もあってか、
俳人・中村草田男、映画監督・伊藤大輔といった
のちの芸術家との親交が青年時代からありました。
万作さん本人もまずは絵でその才能を光らせます。
上京して洋画を学びながら、少年雑誌や少女雑誌の
挿絵画家として活躍しました。
(2)絵画の人・池内愚美
次のコーナーでは、
「池内愚美」の名前で画家として活動されていた
万作さんの絵画を紹介しています。
挿絵画家としては「竹久夢二か池内愚美か」と
憧れられたほどのうまさ。
結局はその道は断念しますが、
洋画でもたいへんな素質があったようです。
伊丹十三さんが幼い頃から絵がうまかったことは、
なるほどお父さん譲りかとまず納得させられます。
またここでは、2011年の7月11日まで、
「櫻狩り」を見ることができます。
万作さんがおでん屋「瓢太郎」を
一年たらずで潰してしまったあと、
身を寄せていた松山中学時代の友人
宮内一乗さんのお宅にて、描いた絵です。
花見をする、見るからに楽しげな油絵で、
宮内さんはずっと大事に家に飾っていらしたそうです。
宮内さんが亡くなられた後は
久万(くま)高原町の町立久万美術館が所蔵しています。
今回の企画展のために特別に、
期間限定(5月14日(土)から7月11日(月)まで)にて
伊丹十三記念館で展示しています。
(3)映画の人・伊丹万作
1927年、既に映画監督として活動していた
松山中学時代の友人・伊藤大輔さんを頼って、
京都へ行きます。
伊藤さんのすすめでシナリオを書き、
片岡千恵蔵プロダクションの創立にも参加して、
めきめきと頭角を現します。
このとき、伊丹万作、という名前を使い始めます。
(4)文筆の人・伊丹万作
絵を描き、監督、脚本家としても名を馳せた万作さんは
文筆もものする人でした。
映画論や演出論、エッセイ、社会評論などを執筆し、
十三さんも少年時代、そして俳優、映画監督となってからも
万作さんの本をよく読まれたそうです。
特筆すべきものとしては、
「戦争責任者の問題」(1946年)の全文が
企画展にて展示されていますので、ぜひご覧ください。
以前の特集でも取り上げましたが、
戦争などの社会的な大事件の時に、
日本人が責任をなすりつけ合うさまを鋭く批判しています。
(5)父と子
38歳という若さで、万作さんは結核のため、
病床につくようになります。
十三さん6歳、妹のゆかりさん3歳の時でした。
そんな中でも万作さんは映画の脚本を書き、
名作と名高い『無法松の一生』などを発表しています。
また、子供たちのいろはカルタが、その頃の風潮である
軍国主義に染まってることをよしとせず、
すべてのカルタの裏側に自分で芭蕉の句と絵を描いて、
カルタを作ってしまいました。
十三さんはのちにこれを、
「これを描けるようになるには、
また別の一生を必要とするようなものですよ。
このカルタは。」と賞賛しています。
最後に、結核という病気のため、
子供への伝染を気にして、思うように
ふれあうことの出来なかった父として、
思いを綴った詩を、ほんの一部ですが紹介します。
(全文は企画展でご覧いただけます。)
亡くなる3年ほど前、
伊丹十三さんの10歳の誕生日に寄せられたものです。
反抗期のころに父を失い、
また闘病中は厳しい父であったため、
十三さんは長くお父さんに対して複雑な気持ちを
抱いていたそうですが、
この詩を読むと、どんなに父から愛されていたかが、
偲ばれます。
伊丹万作さんは、伊丹十三さんの父というだけでは
決して言い足りない、
日本の芸術や文化に多大な功績を残した、偉才の人でした。
この企画展は、その作品のすばらしさを
再確認することはもちろん、
表現者としての真摯な姿など、
伊丹十三さんの中に父・万作さんの姿が
深く根づいていたことを、あからさまにしています。
そしてそれをまた、自分の形で作品にし、
表現できる伊丹十三さんの強さに、
あらためて心うたれる思いでした。
ぜひ、一度お出かけください。
ちょうど、6月の19日(日)は「父の日」です。
この機会に、伊丹十三記念館へ行ってみませんか。
糸井重里が第1回伊丹十三賞をいただいたこともあって、
愛媛県松山市にある、伊丹十三記念館さんとは、
折にふれてお付き合いをしています。
その記念館さんから、常設展の他に行っている、
長めのスパンでひとつのテーマを展示する「企画展」が、
新しくなりました、とお知らせをいただいていました。
それは、伊丹十三さんの生涯を語るとき、
決してふれずにはおられない、
父・伊丹万作さんをとりあげた企画展ということでした。
松山で生まれ育ち、挿絵画家、映画監督、随筆家として
それぞれ名の知られる仕事をされた伊丹万作さんは、
松山の人から愛されていました。
伊丹十三記念館は、もともと伊丹十三さんが、
伊丹万作記念館を作る場所として、考えていたそうです。
「ほぼ日」の伊丹十三特集でも、
何度かお父さんについてふれています。
多才であり、それぞれ一流の仕事を残しながら、
その時代の風潮に迎合することのなかった
万作さんの生涯は、
結果的に、伊丹十三さんの生き方とそっくりでした。
しかし、万作さんは、伊丹さんが13歳の時、
46歳という若さで亡くなっています。
万作さんが、短い生涯の中で成したことの大きさを見る
絶好の機会であり、
「万作と十三」父子のありかたを知ることのできる
この企画展に、先日うかがってきましたので、
ご紹介いたします。
常設展示を抜けて企画展示の入口に来ると、
伊丹十三さんによる万作さんについての
ことばが映写されたカーテンがかかっています。
「伊丹万作は 自分に誠実な人であった。 自分に非常に厳しい人であった。 自分に嘘のつけない人であった。 (中略) 彼の作品を一貫して流れているのは 『全体主義的な国家や社会が、 個人の自由とか権利とか幸せとか 尊厳とかってものを権力でもって 踏みにじろうとする時、個人はいかにして、 自分に誠実に生きることができるだろうか』 というテーマだったと思うんですよ。」 (一部抜粋。 1995年、伊丹万作さんの50回忌に、伊丹十三さんが。) |
展示は、5つのコーナーに分かれています。
(1)松山の人・池内義豊
1900年、伊丹万作(本名:池内義豊)さんは
愛媛県松山市で生まれました。
このコーナーでは書簡や写真から、
万作さんの才気あふれる青年時代をうかがえます。
最近ドラマ化されて話題の
『坂の上の雲』の登場人物、秋山兄弟や正岡子規、
さらに松山に縁の深い夏目漱石などもふくめ、
多くの有名人を輩出した土地柄もあってか、
俳人・中村草田男、映画監督・伊藤大輔といった
のちの芸術家との親交が青年時代からありました。
万作さん本人もまずは絵でその才能を光らせます。
上京して洋画を学びながら、少年雑誌や少女雑誌の
挿絵画家として活躍しました。
(2)絵画の人・池内愚美
次のコーナーでは、
「池内愚美」の名前で画家として活動されていた
万作さんの絵画を紹介しています。
挿絵画家としては「竹久夢二か池内愚美か」と
憧れられたほどのうまさ。
結局はその道は断念しますが、
洋画でもたいへんな素質があったようです。
伊丹十三さんが幼い頃から絵がうまかったことは、
なるほどお父さん譲りかとまず納得させられます。
またここでは、2011年の7月11日まで、
「櫻狩り」を見ることができます。
万作さんがおでん屋「瓢太郎」を
一年たらずで潰してしまったあと、
身を寄せていた松山中学時代の友人
宮内一乗さんのお宅にて、描いた絵です。
花見をする、見るからに楽しげな油絵で、
宮内さんはずっと大事に家に飾っていらしたそうです。
宮内さんが亡くなられた後は
久万(くま)高原町の町立久万美術館が所蔵しています。
今回の企画展のために特別に、
期間限定(5月14日(土)から7月11日(月)まで)にて
伊丹十三記念館で展示しています。
(3)映画の人・伊丹万作
1927年、既に映画監督として活動していた
松山中学時代の友人・伊藤大輔さんを頼って、
京都へ行きます。
伊藤さんのすすめでシナリオを書き、
片岡千恵蔵プロダクションの創立にも参加して、
めきめきと頭角を現します。
このとき、伊丹万作、という名前を使い始めます。
(4)文筆の人・伊丹万作
絵を描き、監督、脚本家としても名を馳せた万作さんは
文筆もものする人でした。
映画論や演出論、エッセイ、社会評論などを執筆し、
十三さんも少年時代、そして俳優、映画監督となってからも
万作さんの本をよく読まれたそうです。
特筆すべきものとしては、
「戦争責任者の問題」(1946年)の全文が
企画展にて展示されていますので、ぜひご覧ください。
以前の特集でも取り上げましたが、
戦争などの社会的な大事件の時に、
日本人が責任をなすりつけ合うさまを鋭く批判しています。
(5)父と子
38歳という若さで、万作さんは結核のため、
病床につくようになります。
十三さん6歳、妹のゆかりさん3歳の時でした。
そんな中でも万作さんは映画の脚本を書き、
名作と名高い『無法松の一生』などを発表しています。
また、子供たちのいろはカルタが、その頃の風潮である
軍国主義に染まってることをよしとせず、
すべてのカルタの裏側に自分で芭蕉の句と絵を描いて、
カルタを作ってしまいました。
十三さんはのちにこれを、
「これを描けるようになるには、
また別の一生を必要とするようなものですよ。
このカルタは。」と賞賛しています。
最後に、結核という病気のため、
子供への伝染を気にして、思うように
ふれあうことの出来なかった父として、
思いを綴った詩を、ほんの一部ですが紹介します。
(全文は企画展でご覧いただけます。)
亡くなる3年ほど前、
伊丹十三さんの10歳の誕生日に寄せられたものです。
反抗期のころに父を失い、
また闘病中は厳しい父であったため、
十三さんは長くお父さんに対して複雑な気持ちを
抱いていたそうですが、
この詩を読むと、どんなに父から愛されていたかが、
偲ばれます。
「子供ノ誕生日二」 岳彦 オメデトウ 今日ハオマエノ誕生日ダネ 十年前ノ今日 オマエガウマレタトキ 父ハ物置二ハイツテ 郵便受ケヲツクツテイタ ソノトキ父ハ嬉シサト 心配ノアマリ 何ヲシテヨイカ 自分ノスルコトガワカラナカツタノダヨ (中略) 岳彦 オマエガ六ツノトキ 父ハ病気二ナツテシマツタ 始メノウチハネテイルコトガ苦シカツタガ 何年カタツトソレニモ馴レテシマツタ タダ ヨク晴レタ日曜日ナド オマエタチノ手ヲヒイテ郊外二行ケタラ ドンナニ楽シイダロウト思イ 折角ノ夏休ミヲ ツマラナク過ゴス オマエタチノ姿ヲ見ルト 泳ギヤ舟遊ビニツレテ行ケナイコノ身ガ 悔マレテナラナイノダヨ (中略) 父ハオマエニ負ケナイヨウニ シツカリヤルカラ オマエモ父二負ケナイヨウニ シツカリオヤリ 岳彦 |
伊丹万作さんは、伊丹十三さんの父というだけでは
決して言い足りない、
日本の芸術や文化に多大な功績を残した、偉才の人でした。
この企画展は、その作品のすばらしさを
再確認することはもちろん、
表現者としての真摯な姿など、
伊丹十三さんの中に父・万作さんの姿が
深く根づいていたことを、あからさまにしています。
そしてそれをまた、自分の形で作品にし、
表現できる伊丹十三さんの強さに、
あらためて心うたれる思いでした。
ぜひ、一度お出かけください。
ちょうど、6月の19日(日)は「父の日」です。
この機会に、伊丹十三記念館へ行ってみませんか。
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2011-05-27-FRI