門井 |
きょうはかたい話はやめて、
みなさんの質問を受けて、
演出家デヴィッド・ルヴォーさんに
できるかぎり応えていただく
時間にしたいと思います。
デヴィッド・ルヴォーさんは
きのう、現実に東京で
『ナイン』の幕を開け、
ブロードウェイでは
『ガラスの動物園』という
ストレートプレイ、
『屋根の上のバイオリン弾き』
というミュージカルの
演出作品が
ふたつ同時に上演中と、
大変稀有な状況にある演出家です。
では、デヴィッドさん、
最初にそのあたりから
お話しいただけますか?
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デヴィッド |
みなさん、終演後に
残っていただいて
ありがとうございます。
舞台の上に向けて質問をするのが
難しいのはわかってます。
でも、わたしも稽古場では
ばかばかしい質問をたくさんします。
みなさんもばかばかしいかも!
なんて、どうぞ気にすることなく、
どんどん質問してください。
とはいえ、みなさんが
質問しやすくなるまで、
少しわたしから話します──
わたしが演出した『ナイン』は、
9年前、ロンドンでスタートし、
その後世界じゅうを旅してきました。
ブエノスアイレス、
ブロードウェイ‥‥
そして、ようやく
この東京にたどり着いた、
という感じがしています。
世界を旅してきて、
この作品に一番
ふさわしい居場所を
みつけた気がします。
『ナイン』の原型は25年近く前の、
トミー・チューン版に
さかのぼりますが、
ブロードウェイで上演されたものの、
ブロードウェイ的ではない作品です。
とても「パーソナル」な作品──
イタリアの映画監督、
フェデリコ・フェリーニの
『8 1/2』をもとに、
ひとりの映画監督の視点を通して
描かれているという意味で、
とても「パーソナル」だと言えます。
そしてもうひとつ、『ナイン』は、
たとえばディズニーや
キャメロン・マッキントッシュなどの
大資本の力を借りなくても、
長く上演できることを
証明した作品です(笑)。
さて、そろそろ、
質問しやすくなりましたか?
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門井 |
では、わたしからひとつ質問を。
本編のなかでリトル・グイドが
ディレクターズチェアに座った姿と、
いまのデヴィッド・ルヴォーが
オーバーラップするのですが、
映画が大変お好きだとうかがってる
デヴィッド・ルヴォーさんは、
影響を受けた映画や
映画監督がありますか?
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デヴィッド |
ええ、わたしはずっと映像の世界に
魅せられてきました。
わたしやわたしより年上の演出家で、
映画に影響を受けていない演出家は
おそらくいないと思います。
わたしがこの作品に取り組めたのは、
長年フェデリコ・フェリーニに
熱をあげてきたからだと思います。
もっと最近の監督で言えば、
スペインのアルモドバルがいます。
この人のことを
考えるようになったのは、
ブロードウェイの『ナイン』で
グイド役を演じた
アントニオ・バンデラスと、
よく話をしたからなんですが。
(※ペドロ・アルモドバルは、
アントニオ・バンデラスを見いだした、
スペインの映画監督で、近年では、
「オール・アバウト・マイ・マザー」、
「トーク・トゥ・ハー」
などの作品があります。
舞台演劇にも深い理解をもった
芸術家です)
現代において「愛」を扱うとき、
皮肉なしにまっすぐ描くというのは、
とても難しいと思います。
アルモドバルは、それに挑戦して、
成功している監督です。
『ナイン』も
「愛」を扱った作品ですから、
そういう意味でこの監督に
刺激を受けています。
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門井 |
ありがとうございました。
それでは客席のみなさん、
ご質問をどうぞ。
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Aさん |
16人もの女性が出演されて、
びっくりするような
登場シーンなどもあり、
これまでに事故やハプニングは
なかったのでしょうか?
なにか、オーマイゴッドと
言ってしまったようなことは?
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デヴィッド |
驚いていただいた登場シーンは、
ごらんのとおり、
見せ場のひとつです。
わたしたちはひとつひとつの場面を、
非常に現実的に検討してきています。
仕掛けにはどのような素材を使い、
どのような方法を
選択すべきか練りに練り、
何度もテクニカルミーティングを
行っています。
安全であることはもちろんで、
それ以上に、
イメージが正確に伝わるかどうかを、
うんざりするほど
ミーティングを重ねて
ここに至っています。
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Aさん |
なにかパプニングも
あったかと思うんですが、
ひとつお聞きかせいただけますか?
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デヴィッド |
ありません。
絶対安全の確信がなければ、
舞台にのせることはあり得ませんから。
‥‥『屋根の上の
バイオリン弾き』では、
ありましたけどね、
オーマイゴッドなことが。(笑)
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Bさん |
とりわけ官能的だった
ライティングについて
質問したいのですが。
内面描写に優れたミュージカルで、
ライティングが果たす役割の
大きさを感じました。
ライティング・デザイナーとの
やりとりやお考えを教えてください。
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デヴィッド |
おっしゃるとおり、
作品に流れる脈を伝えるために、
映像作品でよく使う
照明デザインの手法を
使っています。
この作品とわたしにとって
幸運だったのは、
沢田祐二という
優れた日本人デザイナーと、
10年以上一緒に仕事をして、
すでに共通言語を
持っていたという点です。
色彩の選択、
焦点をどこに絞るかなど、
沢田さんがとても
繊細にしてくれました。
照明に関してもうひとつ
お話しするとすれば‥‥
ブロードウェイで
アントニオ・バンデラスが、
こんなことを言ったことがあります。
「舞台はクローズアップが
できないからなあ」
でもわたしは言いました、
「いや、できるよ。
方法は違うけど」って。
映像作品のセットは
見えるものすべてが
そこにそろっているわけですが、
演劇は観客の視点が存在しないうちは、
まだ未完成なんです。
演劇が、映像のように
すべてをそろえてしまっては、
観客が参加する余地が
なくなってしまいます。
『ナイン』もそうです、
なにもかもをそろえ、
額面どおりに表現することは
していません。
ほんのひとつかみの砂を出すことで、
砂浜をイメージすることを
観る人に要求します。
シーツと女性だけで、
ベッドも、枕も、
またそれ以上のことも、
想像することを要求しています。
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Cさん |
日本でこんな素敵な
舞台を見せてくださり
ありがとうございます。
わたしはきょうで
3回目なんですけれども、
サラギーナの赤い砂の意味を、
聞けたらいいなと‥‥
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デヴィッド |
では、この砂の物語を
お話ししましょう──
実際に体験したことと、
記憶がずれているということが、
よくありませんか。
たとえば、机に残った
昔の引っ掻き傷が、
何年か経ってなにかとても
重要なものに思えてくるとか。
記憶を再構築しようとしたとき、
人はそこにいろんなことを付け加えたり、
また、感情で記憶を
淘汰しているんだと思います。
赤い砂は、サラギーナと
出会った砂浜の砂と、
そのことで教会に咎められたことの、
グイドのふたつの体験が
組み合わさったものです。
砂の入った杯は、聖餐杯と言い、
カトリックの聖体拝領の
儀式で使うものですが、
それは言いつけを破って
砂浜へ行ったグイドの罪悪感が、
記憶に結びついてしまったのです。
組織だった宗教のなかでは、
悦びを求めるときに、
罪悪感をともなうと
いうことがあります。
宗教社会のなかでは、
悦びと罪悪感が結びつくと、
それは「パッション」に変わるんです。
(※英語のpassionには、
「情熱」「熱愛」
そして「受難」「苦悩」
の意味があります。
第一九回
「エブリバディ! エンジョイ!」
岡田静さんのコメントをどうぞ)
つまり、わたしにとって赤い砂は、
「パッション」なんです。
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門井 |
では時間もそろそろ参りましたので、
つぎのご質問を最後にさせて
いただきたいと思います。
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Dさん |
プログラムの対談で勘三郎さんと
シェイクスピアのお話をしていましたが、
これからの夢などございましたら
お聞かせください。
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デヴィッド |
毎朝目が覚めると、
自分は演劇にたずさわっていられて
なんて幸せなんだろうと思っています。
ですからすでに夢はひとつ
かなっているんですね。
わたしが演劇にひきつけられるのは、
見えないものを見せてくれる力が
演劇にはあるからだと思います。
シェイクスピアの話がでましたが、
彼の功績というのは、
それまでは言葉に
できなかったものごとに
名前を与えたことなんです。
シェイクスピア以降の人は、
それによって言葉にならなかったことを
よく理解できるようになりました。
演劇にはそういうすばらしい力があります。
日本では三島由紀夫がそれに近い役割を
果たした作家のひとりかもしれません。
わたしは将来的に、
新しい日本の作家を発見したいと
思っています。
言葉にならないものに名前を与える、
それは大変難しい作業ですが、
そういう作家が
日本にも必ずいるはずです。
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門井 |
では、みなさんからのご質問はこれで
終わりにさせていただきたいと思います。
最後にデヴィッドさんから
もうひとこといただきたいのですが。
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デヴィッド |
できるだけ多くの人と
『ナイン』の話をしてください。
ディズニーや
キャメロン・マッキントッシュの
力を借りずにできたこの作品のことを。
けして、ディズニーや
キャメロン・マッキントッシュの
力がマイナスだと
いうことじゃありません(笑)。
ゼンゼンチガウ‥‥(笑)。
身近なマクドナルドに飛び込まないで、
外国の大資本の力に頼らなくても、
日本の演劇、日本のミュージカルが、
たしかに存在するということを、
最後に言いたいと思います。
みなさん、きょうは本当に
ありがとうございました。
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