『MOTHER 3』の開発が中止になったことについての
糸井重里・岩田聡・宮本茂の座談会 その4
糸井: 『MOTHER 3』が、 特別に難しい仕組みをとっていた、 というわけではないんですか? 岩田: これはハッキリ自分の責任なんですけれど 私むかし、「プログラマーは“できない”って言うな」 と言ったことがあるんです。 これが独り歩きしている部分があって、 それは軽々しく「できない」って言ったら 可能性をすべて閉ざしていきますよね。 たいがいのことはがんばればなんとかなったり するわけですけれど、 全体は有限の制約のなかでやるわけでしょう。 だから、ほんとうにできないことは できないと言わなければいけないし 「できるけど、なにが犠牲になるよ」だったり、 「できるけど、これとは両立しないよ」 ということがいっぱい出てくるはずなんですよ。 そういう意味での 「プログラマーは“できない”って言うな」 だったんですけれど、 それが「できないって言うな」という部分だけが 独り歩きしてしまった。 『MOTHER 3』も序盤の設計が 無謀だった時期があるんですね。 マシンの能力、メモリの容量にたいして 要求されているスペックが過剰だった 時期があったんですよ。 そもそも、「今までにないものを作ろう」と ものすごくふりかぶって作り始めましたから。 糸井: みんな、力入ってましたよね。 岩田: 『MOTHER 2』時代は逆に、 あれもできない、これもできない、 という状況を、ぼくらがかかわったことで 「そんなの、やればできますよ」 と解決していった歴史だった。 そのことがあって、僕らの総合力に 過分に期待してもらった、ということが きっとあるんだと思うんですけれど。 でも初期の設計は、設計として 的確ではない時期があった。 そのことも、私自身が気づかなかったのは 私の手落ち以外の何者でもないんだけれど けっこう、あとになって、 自分が現場に乗り込むようになる時期になって 「これは無理があるからこう変えよう」 と、設計を作り替えるのに けっこう時間がかかったんですよ。 私がものすごく現場と一緒に 仕事をするようになって 1年半から2年弱、あったと思うんですけれど、 そのうち最初の1年は、無理があるところを 作り替えることにエネルギーを使う 必要があって、はたからみていると、 自分が乗り込んでいった最初の9ヶ月くらいは ちっとも前進していないじゃん、 と言われていたと思うんですね。 それが多分、宮本さんが去年の夏前くらいに 「これは考え直さなければいけませんね」 とおっしゃった、ちょうどその時期なんです。 格闘して、もがいていたころですから。 それは一応、きれいになったんですけれど……。 でも、それはほぼ解決したといっても 商品として完成させるためには まだまだ大きなエネルギーが必要で 未来に向けてのプロジェクトを いくつも犠牲にしない限りは とてもまともな時期までに完成させられなかった。 今回のことというのは、 そのために未来を犠牲にすることに 我々自身が耐えられなかった、 ということだと思うんですよ。 糸井: 一番最初の力の入り方というのを 僕もよく覚えています。 『MOTHER 2』が難産で、 死産かと思われるところまで行ったとき そこに岩田さんがやってきて、 なんとかしちゃった、というところで もうスーパーマン扱いになっちゃいましたよね。 僕らにとってはスーパーマンだった。 にっちもさっちもいかなくて プログラムを作り替えましょうというくらいの ところで、やり直しましたよね。 で、セールス的にはどうだったかは別として 少なくとも後からみんなが「よかった」と 言ってくれるゲームになった。 実現しないかもしれないというところまで 実現してくれた、というところで 岩田さんが神格化された。 岩田さんがいればなんでもできる、 と思っちゃった。 僕自身が典型的にそうなのは 『MOTHER 3』のシナリオは、 ぜんぶで12章ですよ。原作は。 ロールプレイングゲームで12章あって、 みんな違う遊びができるように、だとか そのくらい欲をかいて12章つくる、なんてことを 今の自分だったらやりっこない。 でも、その時はものすごく夢がふくらんでるから この章はこういうふうにしよう、 ここは普通のロールプレイングゲームだけど ここは全体を眺める章なんだとか ここでは時制を重ね合わせるゲームだとか いろいろ、しちゃったわけですよね。 それをつくっているときには 3Dのポリゴンで、主人公達ができてしまえば あらゆる画面でそのお人形を使えばいいわけだから 舞台を12幕変えよう、みたいに、 どんどんできるんだ、って思ってた。 でも実際には、そこで起こる事件にあわせて 動きも違えば、起こすイベントによって プログラムも全然変わってくるわけで……。 そういうことを考えずに行っちゃいましたよね。 自分でもあきれるほど楽しかったんですよ。 俺は何でもできる、と思ったときの嬉しさって ものすごかったんですよね。 岩田: ずっとね、ゲームでできる表現はここまで、って 制約を受けてましたから そこから解き放たれた瞬間の 作り手の欲望の広がりかたっていうのは まさにビッグバンだったんですよね。 それはみんなそうだったし 現実に宮本さんが、今にして考えれば短い時間で 『スーパーマリオ64』っていうゲームを 作り上げた過程を見ていた。 そこは宮本さんだからできた部分が たくさんあるんだけれど、 あのときは、みんな病気にかかったんですよ。 3Dは、自分たちの抱えているいろんな問題を 解決してくれる答えだ、ってことに対して。 それは自分自身、3D病にかかったことを 否定できないし、任天堂はどちらかいうと プリレンダームービー型のものを 否定していたほうだと思いますけれど、 であっても、 3Dで迫力ある演出みたいなことは、 なんら業界全体かわらず、 みんなと一緒に病気にかかっていた。 それは現実に、ツールのうえでは やればすぐつくれるわけです。 エネルギーは要りますけれど、絵は出るんですね。 けどそれは、ちゃんとゲームのなかで 問題なく作りこまれて、つながっていくために 必要なコストや、時間や、エネルギーや、 ほかとの整合性の都合といったものは、 わかっていなかったゆえに軽視してきた。 いま糸井さんが言っていたような 『MOTHER 3』の構想を いまの私が聞いたら、 「糸井さんそれ全部は無理だ」と言うでしょう。 「一番自信のある要素はなんですか、 じゃあそれを作りましょう」と言うんですよ。 宮本: Dolphin(次期ハードウエア)なら できますよ、っていう話もありましたね。 岩田: Dolphinが解決する問題は たしかにいっぱいあるんですけどね。 とくに、描画速度とか、 同時にたくさんものをだしたときの処理速度とか。 それはすごく大きく解決するんですけれど、 ただ、それが解決したら問題は解決か、 と言ったらそうじゃなくて。 糸井: 機能としては解決する、と。 それくらいのこと。 岩田: そうです。ある要素はね。 だけどそれが破綻なくつながった ひとつのプロダクトとなって 触り心地のよいものになったときに 一筋縄では行かない。 それはエネルギーを自信のある要素に 絞って作らないと……。 お客さんの目が肥えてきていて 満足してもらえないのは わかりきっているので、これからは、 あるていどディテールを作らないといけないし、 僕らは作る要素を絞らなきゃいけなかった。 その意味で、自分が決断したことの中に、 今回、せっかく糸井さんに考えてもらったことが、 ある種、僕らがのろのろしている間に 時代に合わなくなってきたのかな、 ということをすごく感じていた面があります。 これが「鮮度」というものの ひとつのファクターなんでしょうね。 宮本: ほんとうは、去年の冬に売りたかったんですよね。 それが果たせなくなったところでけっこう 考え直すべきや、と。 ことしのクリスマスは、 もう、絶対なんですよ。 現状は、さっきの3割か6割かという 話にもなるけど、 ちょっと、グレイになっていて、 今日の時点になると、もう完全に、 ダメになりますよね。 そういう意味では、 今どうしてもこれを犠牲を払って つくるわけにはいかなくなった。 糸井: もう市場がなくなっているということですよね。 クリスマスをすぎてしまうと。 |