笠井さんが老人ホームに入った。 ほぼ日の老いと死特集 笠井さんが老人ホームに入った。 ほぼ日の老いと死特集
元ほぼ日乗組員の笠井宏明さんが、
老人ホームに入ったと聞いて驚いた。

12年前までは海外の工場とのやり取りなどを
ばりばり仕切っていた笠井さんだ。
ときどきお会いすると相変わらず姿勢がよくて、
しゃきしゃきしゃべるあの笠井さんだ。

「老いと死」の特集をやるまえから、
ぼくは笠井さんがなぜその判断をしたのか、
話を聞いてみたかったのです。
#8 死は
取材の最中、笠井さんは何度もぼくに、
「こんな話で大丈夫?」と確認した。
「どうつかうかは任せるから」とも度々言った。



いまさらだけど、きちんと書いておく。
笠井さんは、ここに書いているようなことを、
自分から発信したいとはまったく思っていない。



そうではなくて、笠井さんは、
ぼくの力になろうとしてくれているのである。



自分の話がコンテンツに役立つなら、
かつての同僚がそれを必要とするなら、
できるだけ協力するよという姿勢で、
笠井さんはあまり人には言わないような話まで
つぶさに語ってくれている。



だから、笠井さんはずっと真剣で、
なんというか、親身だ。



通り一遍のコメントなどなく、
根っこにあるほんとうのことだけを、
ずっと丁寧に語ってくださっている。
ぼくは笠井さんの話を聞くというより、
そのことばを丸ごと預かっている気がした。



たっぷりと割いてもらった取材時間も、
終わりに近づいていた。



笠井さんは今日しゃべったことを振り返って、
「まあ、俺がここに入った理由ってのは、
だいたいそういうようなことかなぁ」と言った。
そして、ちょっと考えながら、
「時間は驚くほど速く過ぎるよ」とつぶやいた。



自分で言ったそのことばが、
思い出をひとつ浮かび上がらせたようで、
笠井さんは語りはじめた。



奥様の話だった。



「ぼくの女房は、さっき言ったように、
7年半前に死にました。



11月29日に死んだんだけど、
その年の8月まで、
女房とスイスへ行ってたんだよね。
スイスに行って、
マッターホルンだとか、ユングフラウとか、
三つの峰を2時間か3時間ずつトレッキングして。
写真
そのときはとくになにもなくて、
帰って来て、なんかお腹が張ってるから、
ちょっと医者に診てもらったら、
いきなり『精密検査です』って言われて。
調べたら、がんだった。



9月末に診てもらって、入院して、
11月に死んだ。



たぶん、本人は、死ぬまで、その瞬間まで、
自分が死ぬとは思ってないと思う。
3日ぐらい寝たきりで、昏々と眠って、
意識ないまま逝ってるから。
たぶん、死ぬと思ってなかったと思うんだよね。



そのとき、すごく思ったのは、
徹底的にいろんなことを調べて、
いろんな手を打ったとしても、
逝くときは突然逝っちゃうなっていう。



だからって、すべてを達観することはできないので、
いろんなことはしなきゃいけない。
だから、もがくしかないかな、って」



自分のことはすべて
合理的に判断してきた笠井さんだけれど、
奥様について話すときは、
いまも答えを探しているかのようだ。



ぼくは訊いた。



「笠井さんは、死については、どう思ってますか?」



笠井さんはほとんど迷わず答えた。



「死は、基本的には、あまり怖くない。



女房が死んじゃったし、とりあえず、
娘たちと孫たちの目鼻もついてるし。



とても愉快な人生をずっと送ってきたから、
いつ来ても、それは全然かまわないなと思ってます。
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この前、すい臓がんの疑いが
あったときもそう思ったんだけど、
もし、本当にすい臓がんになったら、
なにもせずに放置して、
3年後に死ぬんだったら3年後でいいし、
それが半年後でもいい。



基本的には、ホスピスで、緩和ケアして。
死ぬときは苦しまないで、
それなりに死んでいけばいいな、と。
子どもたちに、心配のないように、
いろんな手当だけはしつつ、
それができる中で死んでいくんだったら、
それはそれでいいのかなと思ってる」



一気にそこまで言ってから、
すこし考えて、ことばを足した。



「ただ、そうは言っても、
今回、精密検査で、
すい臓がんの疑いがあるって言われて、
最終的には心配ないって言われたとき、
ほっとしたのも事実で。



だから、割り切っているようで、
俺、やっぱり死ぬのは怖いのかなって、
そのときちらっと思ったけどね」



死は、怖くはない、という笠井さんと、
心配ないと言われてほっとしたという笠井さんは、
両方、ほんとうなのだと思う。



笠井さんにかぎらず、多くの人が、
その両極端のあいだでゆらゆらしている。
そして、笠井さんは、さらにもうひとつ、
死についての「現在地」をつけ足した。



「俺はもっとまえに前立腺がんをやって、
それは全摘して完治したんだけど、
そのときは、女房もいたし、娘たちも若かったし、
孫も生まれてなかったので、
『これは死ぬわけにはいかない』と思ってた。



がんと、死と、徹底的に戦うつもりでいた。
そのときと、いまは、かなり違うな」



つまり、笠井さんにとっての死は、
奥様と、お子さんと、お孫さんとの関係によって、
抗うべきものにもなるし、
受け入れるものにもなる。



そういえば、今日、笠井さんは、
自分の節目や決断を振り返りながら、
じつはずっと家族の話をしているとぼくは思った。



その後、話はほどよく雑談になり、
笠井さんのお孫さんの話や、
ほぼ日の話や、生命保険の話なんかを
しているうちに時間は過ぎて、
ぼくらは帰ることになった。



最後に、しっかりカメラ目線の写真を
撮らせてもらったんだけど、
そこが一番笠井さんは所在ない感じだった。



え? カメラ目線?
どうすりゃいいんだかわかんねぇなぁ、
って感じだった。
写真
この日、ぼくは笠井さんとたくさんの話をした。
本心から、信頼し合って、たくさんの話をした。



比較することなんてできないけれど、
たぶん、一緒に働いていたときも、
ここまでの話はしなかったと思う。



人と人が、話をするというのは不思議だ。
いったいどういうことなんだろうと思う。



長くつき合っているからといって、
深く、つきつめた話ができるというわけではない。
そういう話にならないからこそ、
長くつき合えるということだってある。



会ってすぐの人と
深くわかり合うような会話ができることもある。
99パーセント無駄話しかしていないんだけど
その会話をずっと憶えているということもある。



いつも同じ話になって退屈する関係もあれば、
いつも同じ話になって超楽しい関係もある。



人と人が、話をするというのは不思議だ。
いったいどういうことなんだろうと、
ほんとうに思う。



笠井さんとたくさんの話をしたあとぼくが強く感じたのは、
こういう会話を誰かとすることは、
かけがえのないよろこびであるということだ。
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この日、会話のなかにしばしば登場した、
「人生」というキーワードに便乗して大げさにするなら、
ぼくの人生の大きなよろこびのひとつは、
誰かと深い部分でほんとうのことばを
交わすことなのではないかと思う。



おいしいものを食べたりとか、拍手をもらったりとか、
いい作品に出会ったりとか、お金を稼いだりとか、
いろいろな動機とよろこびがある思うけど、
ぼくは、人と、がつんと組み合うほんとうの話がしたい。



長くても短くてもいい。年上とでも年下とでもいい。
わかりあう話はもちろん、
わかりあえないとわかる話でもいい。
すぐに見つかる答えではなくて、
互いに見つけようとしてなかなか見つからず
ぎりぎり最後につかみとる答えのようなものでいい。
げらげら笑う雑談のかたちでもいい。
いやぁ泣いちゃったよな、という時間でもいい。



友だちと、同僚と、ふと知り合った人と、
尊敬する人と、家族と、
返事や、記号や、引用や、決まり文句じゃなくて、
ほんとうのことばを交わす。



それがしたくて、生きている。おおげさにいえば。
あなたはどうですか?



その意味でいえば、この日、ぼくは、
笠井さんとこんなふうにことばを交わすとは、
きちんと予想していなかったのかもしれない。



つまり、取材のつもりでぼくは笠井さんと会った。
意外なほど早く老人ホームに入った人、
というひとつのケースを取材するつもりでいた。



それが取材を超えて
ことばを交わすことになったおかげで、
たくさんの意味をぼくは知った。
逆にいうと、いい取材というのは、
そういうふうに取材を超えていくものなのだと思う。



人が、生きて、選択して、
老いたり、病んだり、施設に入ったりするとき、
決まったパターンやケースなどない。
統計のグラフはつくれるかもしれないけれど、
そこから自分の生き方が導かれるわけではない。



全体に、用いることばが大げさになっちゃうけど、
こういうテーマなんだから大目に見てほしい。



笠井さんに限らず、どこのどんな誰であろうと、
それはモデルケースになんてならない。
ひとりひとりにひとつひとつの人生があるだけだ。
うわあ、なんて大げさな。



そして笠井さんに教わった大切なことは、
生きることも、人生も、死も、
現実が連続した結果だということだ。



ひとくくりにするととらえきれない全体も、
ちいさな現実で成り立っている。
当たり前のことだが、
ともすればぼくらは、
その当たり前を見なかったことにして、
全体ばかり見て途方に暮れるふりをする。



個々の細かい現実に向き合うより、
途方に暮れて先送りするほうがらくだからだ。
ひとつひとつの現実に対応するのはしんどいから、
死とか生とか人生とか、
できるだけ大きくて便利な風景にして
自分の目から余らせるようにする。



たぶん、若者のころは、それでいいと思う。
“ 「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて ”


けれども、「老いと死」が現実のものだと
わかる年齢になったなら、
目をそらさないほうがいい。



電柱から電柱までを歩くことの連続が帰り道になるように、
サービスエリアで休憩しながらいつか目的地に着くように、
生きることも、老いることも、死ぬことも、
短い現実と、その都度の判断で、ひとつに連なっている。



笠井さんとのたっぷりとした会話は、
ぼくにそのつなぎ目をはっきりと意識させた。
一見、つるつるに見えるかたまりの表面に、
かすかだがたしかにあるつなぎ目を笠井さんは指し示し、
「ほら、ここ、見えるだろ?」と
ぼくに伝えようとしているように思えた。



だから、ぼくは思う。
たとえあらゆる現実に対応できないとしても、
せめて今日から、そのつなぎ目を意識していきたい。



そして、ついでに、
おせっかいな願いを許してもらえるなら、
これを読んだひとりひとりの方の目に、
それぞれが向き合うべきかすかな現実のつなぎ目が
過不足なく映ればいいのになと思う。



笠井さんが老人ホームに入ったことを取材した
コンテンツを終わります。



本来裏方であるべき取材者が
終わりのブロックをこんなにも
たっぷり書いてしまってすみません。



最後にこころからの感想を書き添えると、
笠井さんのことを伝えることができて、
ぼくはとてもうれしかったです。



笠井さん、ありがとうございました。
またお話しさせてください。
2025年3月 永田泰大